永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

幸福の便り 太宰治

『幸福の便りというものは、待っている時には決して来ないものだ。 太宰治走れメロス正義と微笑』(潮出版社)』

不幸の手紙」というチェーンメールが流行したことがあります。

それを受け取ると、7人に同じ内容を出さないとダメというものです。

それを怖がって、続けるならば、不幸の連鎖がおきます。

どなたかが止めたので、それが、出回らなくなりました。その勇気ある行動が不幸を激減させたのです。あるいは、単に、あほらしかったので相手にしなかったのかも知れません。

情報過多の時代に、その情報の内容を吟味せずに、垂れ流しにしていると、様々な被害者を生み出してしまう懸念があります。

特殊詐欺系や「お金送れ」という内容の要求は、度を越していると感じても、止まる気配がありません。

冒頭のフレーズは、幸福の便りについてです。

「便りが無いのは無事の知らせ」という言い回しもあります。

「大変だ」という内容の方が、ニュース性が高いように、手紙も同じような傾向を感じます。

手紙があってもなくても、親は子どもを想い、幸せを願うのが多数派なのだと信じたいです。

幸福の手紙とは、どの様な内容なのか気にはなりますよね。

あまり、自分が幸せだと、その内容を書き連ねると、よろしくないような心理的抵抗も、あるのかなと考えます。

「禍福はあざなえる縄のごとし」という言い回しがあります。

自分がこんな幸せではいけない、良いことがあると悪いことが起こりそうでコワいと言ったような、心理状態になる可能性もあります。

人生には、良いことも悪いことも半々でおきるとも限りません。

人によっては、ラッキー続きの人生かも知れません。

別のケースでは、悪いことの連続だというケースもあります。

しかし、その人が置かれた状況を、自分自身でどの様に捉えるかも、また、差があることです。

病気や経済的破綻などの渦中にいる人が、結構ポジティブだったり、ラッキー続きの人がビクビクしていたりするからです。

このように考えると、幸せの便りは、誰かから来るのを待つよりも、自分で感じる方が現実的かも知れないですね。