永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

明日は? 今日は? 島﨑藤村

『明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日は何時まで待っても来やしない。今日はまた、瞬く間に通り過ぎる。 島﨑藤村』

明日が来たかどうかは、今日の時点ではわかりません。

それこそ、明日になってみなけりゃわかりませんね。

時間の流れる感覚は、自分自身でも、時と場合によって差があるなあと感じています。

何かに没頭していると、時間はあっという間に過ぎていき、時間が足りないと感じます。

一方、ナカナカ進まない課題に直面していたり、楽しめないと感じる状況に身を置くと、時間がとても長く感じたりします。

この箇所を書きながら、以前の記事にも取り上げた聖書のフレーズで、『だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:34新共同訳)』を思い出しました。

自分のイメージの中で、現実的に、「今日のこと」と「明日のこと」へのペース配分で悩ましいこともあります。

自分の思考整理としては、「明日のことを考えて段取りや準備をすることは必要だけれど、今日のことを蝕むほど明日のことに占領されないように気をつけること」と考えるようにしています。

一番大切なのは、「今」であり、「今日」だと考えること、次に、明日が来ると考えて、そのために必要な準備をするという優先順位ですね。

ちょうど炊飯器に、明日の朝食べる予定のご飯を用意して、タイマーをセットしておくイメージですね。

理想を言えば、メリハリをつけて、集中や熱中できる時間、インプットする時間、アウトプットする時間、ディスカッションする時間、また、インプットもアウトプットもしないメディテーションタイムを持てると良いなあと考えています。

周囲からのプレッシャーのかかり具合によって、マイペースを保つのにも課題がありますが、今日の分を果たして、明日へ備えたいと考えています。

過去の価値は? ふり返るモノ 縛られるモノではない!

「過去」は誰にでもあるものです。

また、その中には、自分が選択してきたもの以外に、背負わざるを得なかったものや、受け継いだ遺産的なものまであります。

ここでは、一人一人の人生に限定して考えてみることにします。

自分が物心が付いてからの人生は、ふり返ってみると、楽しかったことや、思い出したくない苦いコトなどもありますよね。

楽しかったことは、人と共有したり、家族の会話でネタになってもどうってコトはありません。

でも、自分にとっての「思い出したくない苦いコト」がネタにされると、笑い飛ばせる人にとっては、何てことはないのでしょうけれど、人によっては、嫌な感じだけではなく、ネガティブさに支配されてフリーズしてしまったり、フラッシュバックを起こしてしまったりすることもあるかも知れませんね。

実際問題として、過去に縛られている人が多いのではないでしょうか?

人生の先輩の口からは「過去はふり返るものであって、縛られるモノではないのだよ」と聞きます。

本当にその通りですね。

この考え方は、過去を活かし、宝探しをするために、必要不可欠な考え方だと共感しています。

その中には、「過去=悪」ではないと言う考え方や、どれだけ後悔してみても「過去は消えることはない」という意味合いも込められていると考えられます。

自分にとって過去の棚卸しをして、その価値を再発見する機会は、常にあるのですね。

信仰者の豊かな報酬とは? 箴言10:16

『正しい人の報酬はいのち。悪しき者の収穫は罪。(箴言10:16新改訳2017)』

「いのち」を選ぶか?どうか?が、人生の分かれ目のようです。

「健康や充実した仕事、経済的に充足すること、確信や充足感が味わえること」が、イスラエルで使われるあいさつ「シャローム」の意味する「欠けのない充足した平和・平安」なのだそうです。

出エジプト後の荒野での生活も、マナの供給があり、シャカイナグローリーも常にあったので、落ち着き所のない不安も感じていたでしょうけれど、客観的に見れば、理想形でもあったのでしょうね。

創造主である神の基準は、「正しい人」とは、神を認め、目的の偉大さ、全知全能、本質のすばらしさを理解し、これに従って生きる人であるということです。

それは、倫理的に優れているとか、ある能力に秀でていることとは無関係です。

その本質は、創造主である神への態度なのですね。

大切だと思っているパートナーとギクシャクしている状況があれば、気持ちが落ち着かないコトがありますが、それよりも大きな要素(創造主と人との関係)がココにあるのですね。

多くの人が存在不安を感じるのは、ココの関係が確立できていないからなのです。

これが、確立できた状態こそが「シャローム」と表現できるのだと考えています。

いのちに感謝し、生きる充実感や生きる喜びがあるというのが本当の報酬ということなのですね。

この本質的な部分の点検作業は、定期的にしていると、人生の軌道修正がうまく機能するのではないでしょうか。

馬鹿を避けても賢明とは限らない ラ・ロシュフコー

『一つも馬鹿なことをしないで生きている人間は、彼が自分で考えているほど賢明ではない。 ラ・ロシュフコー

賢明に真面目に生きているつもりでも、周囲からは、どこか間が抜けていると感じられているのでしょうね。

人間は、他社評価に対して非常に敏感だと考えています。

「自分は、人にどのように見られようが関係ない!」と言いながらも、身なりを整えておしゃれをしたり、ファッションにコストをかけたりしますからね。

中には、「自分が気に入った格好をする」という方もいらっしゃいますが、自己評価を上げるために、あるいは、下げないために必要なコトと考えているように感じます。

格好もそうですが、自分の立ち居振る舞いも、他者から悪目立ちしないために抑制をしているのでしょうか。

筆者が大切だと感じているのは、他者から「馬鹿だね。」と言われたとしても、自分の意志で選択することです。

「馬鹿だね。」という評価だけを避けようとすると、身動きさえもとれなくなることも出てくるのではないでしょうか?

あえて、「馬鹿だね。」という評価を引き出す行動は子どもじみています。

しかし、「ウケ」狙いではなく自分の状況に合わせた判断で、適切に行動することを積み重ねる必要が、それぞれの人生には必要のように感じますね。

人生は耳学問 ソクラテス 「無知の知」

ソクラテスは、哲学者として有名すぎる存在です。

当時のギリシャの中でも多くの哲学者がいたのでしょうけれど、彼が後世まで名を残すコトになったのかを考えると実に不思議です。

その思想は、弟子の哲学者プラトンやクセノポンなどの著作で世に広く知られるようになったそうですね。

また、釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖フォーセイント)に数えられる存在でもあります。この4人の考え方を参考にしながら生きている現代人が多いのですね。

これを考えると、人間は、彼が生きていた紀元前400年代の世界とさほど変わらないのかも知れませんね。

また、ソクラテスにはクサンチッペという妻がいました。

『ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる』

ソクラテスが言ったとされるフレーズの「悪い妻(クサンチッペ)」が彼を哲学者として立たしめた、立役者というコトになります。

今の私からは、真偽のほどはわかりません。

いずれにしても、夫婦の組合せというモノは、他人からは理解できるほどスッキリしたモノではありませんね。

ソクラテスソクラテスなりの幸福を感じながら生きていたのだと思います。

伝わっている話に、「無知の知」という概念があり、「自分はまだまだ何も知らない」という謙虚さがソクラテスの中にあったようです。

自慢話ばかりをしていると、周囲から実態とのギャップを測られたり、それなりの取り扱いを受けてしまうものです。知らないのは自分ばかりというコトになりますね。

等身大の自分の表現と、「自分はまだまだ何も知らない」というスタンスで自然体に振る舞いたいですね。

紅海を渡る モーセの叫びと信仰 出エジプト14:15-31

『主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルエジプト人の手から救われた。イスラエルエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。(出エジプト14:15-31新共同訳)』

シャカイナグローリーの補足です。
「彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。」
とあるように、創造主である神ご自身が、雲の柱として、火の柱として両陣営の間に入り、その距離を保っていたと言うことですね。これぞ、最強の守りですね。

また、紅海について、葦の海(リードシー)からの変化系が紅海(レッドシー)なのではないかとの説があります。これは、歴史を検証することや翻訳する時の文化的な違いなどで困難なテーマでもあります。概ね、イスラエルの民が渡ったのは紅海とするのが正当なのでしょう。

これが、あの映画「十戒」のクライマックスシーンですね。

イスラエルの民は、水が分かれた紅海を渡り、その後に続いたその当時、世界最強のエジプト軍が続いて入ったのです。イスラエルの民が渡りきった時に、元の水面へと戻され、エジプト軍は全滅することになりました。これも、人知を越えた主の戦いの結末なのですね。

動画 自分で食事の準備をするネコちゃん


Hungry Kitty Drags Cat Food Tin to His Bowl || ViralHog

ペット関連用品はスゴい広がりを見せていて、人間用にはないグッズまで揃っていたりして、ビックリする時代です。

ペットフードも水を飲む装置も、飼い主の帰宅が予定よりも遅くなっても、大丈夫なように工夫されたアイテムまであります。

一昔前なら、袋入りのペットフードが当たり前で、そのありかを知っているペットが、袋をかきむしって家中散乱してスゴいことになったという話題もありました。

最近は、缶詰ができてきたので、さすがに缶のふたは開けられる動物は少ないでしょうね。

この動画のネコちゃんは、自分のお食事をいつも食べる場所に自分で運んでいます。

お手々で、押さえながら少しずつ後ずさりしていく姿は健気でカワイイですね。

食いしん坊さんで、おかわりなのかは不明です。飼い主が動画に撮りたくなったのも理解できますね。