永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

長所のために身を滅ぼす 池波正太郎

『人というものはな、おのれの長所を隠すことをくふうしなければいかぬのよ。それでないと、おまえは自分の長所のために身を滅ぼすことになろう。 池波正太郎

「戦国と幕末」の中で記されたこのフレーズですが、自己アピールを工夫する必要性があることを考えさせられますね。

混乱の世の中で、自分の存在を示さなければ、埋没しかねない要素もありますから、自分の長所を生かして活躍し、次の時代につなげたいという意欲を持つ人はおおいでしょうね。

しかし、同時に世渡りという処世術も求められるのがこの世の中であるという一面もあります。

自分のポリシーに従って生きるという筋の通った生き方を貫く格好良い選択肢もありますね。

サバイバルしなくてはいけないとなれば、どうすればより良いところにたどり着けるのかも模索しなければなりませんね。

『能ある鷹は爪を隠す』といいますが、自分の長所と鷹の爪を同じようなイメージで捉えると、ここぞと言うときに、自分の長所を発揮できるのがベストなのでしょうね。

自分の長所によって身を滅ぼすことは、できれば避けて通りたいですね。

大丈夫だと思いたいのは大丈夫じゃないから

「大丈夫」と繰り返し自分に言い聞かせていた時期があります。

どうしてかというと、不安が優位で、「大丈夫じゃなかった」からです。

自分にとって「大丈夫」である根拠をイメージしながら、繰り返し「大丈夫」を繰り返すことで、筆者自身は不安が薄まり、以前ほど「大丈夫」という言葉を繰り返さなくても良くなりました。

不思議ですが、これは、私自身の体験であり、経験です。


この「大丈夫」というフレーズにも様々な使い方があります。

でも、「本当の大丈夫」には、ナカナカ使われませんね。

良く目にする光景に、子どもがこけてヒザをすりむいて痛くて泣いているのに、母親が「大丈夫、大丈夫」と言いながらアプローチすることがあります。寄り添う母親の姿は素晴らしいのですが、子どもは痛いことを認めて共感して欲しい気持ちもあると思いますから、このケースの母親は、ステップを一つスキップしているのかも知れません。

あるいは、別の状況では、真実を追究されて、それを誤魔化すために「大丈夫」などと言い繕うこともあります。このようなときの「大丈夫」は要注意ですね。

自分が何気なく口にしている「大丈夫」を意識化すると、自分の傾向に気づきがあるかも知れませんね。

モーセの逡巡 「私は知らない」 出エジプト3:13-22

モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。…」(出エジプト3:13-22新共同訳)』

モーセは、「私は神様を知り、共に居て下さると信じていますが、神様のことをイスラエルの民にどのように説明すればよいのでしょうか? それが、わかりません?」と言い出しました。

果たして、自分が出て行って、イスラエルの民が理解して、味方として、受け入れてくれるのだろうかという疑問と恐怖が湧いてきたのですね。自分は神を知っているつもりだけれども、説得力を持って説明ができる知識を持ち合わせていないということです。

確かに、「与えられた役割を誰の権威で行えるのか」とか、「その権威を持っている神の名前は何か」とか、「本当に肝心なときに助けを呼ぶことができるのか」など、信じるに足るものが求められるでしょうね。

この疑問に対して、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされた…」と示されました。

「すべてを包み込み、限界がなく自立自存で自立しているというのが、創造主である神の本質」ですから、それを説明するのには困難を伴いますね。

もう一つ「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というイスラエルの民にとって、「契約の神である呼び名」を示されました。

また、「やがて出現するメシアに至る系図に沿った契約を保証する呼び名」ですね。

選びの民のはじめとして呼び出されたアブラハム、そして、神にしかできない状態で授かった子孫であるイサク、そして、長子の権を譲り受けたヤコブへと繋がって行った系図は、イスラエルの民にとっては、良く理解していることですから、そのような呼び名を示すことによって受け入れることになると示されたのですね。

ドラマチックすぎることが起きるが、私が一緒にいるから大丈夫と言われたのですが…

動画 再会の時 驚きとうれしさが大爆発する


NHS hero mum surprises kids after 9 weeks away

感染症対策で世の中大騒ぎになり、その渦に巻き込まれている方々に、心からの労いをおくりたいです。

特に、医療関係者の方々には、家族との分離を余儀なくされて、小さな子がいる人にとっては、双方にとって寂しい日々であろうと想像しています。

この動画は、久しぶりに帰宅した医療関係者の母親と子どもたちの再会シーンです。

特に、子どもの反応からは、このようなドラマがあったとしても、演技では再現できないような感動が伝わって来ました。

自宅隔離の期間に、「家族の分断が起きたとか、起きそうになったとか、」という話も聞きますが、一方、「家族のことがもっと理解できて絆が深まる機会だった」という話も聞きます。

家族構成や環境によって、どうしても共存に課題が出てきてしまうケースもあるようですが、そんな時に、背を向けるのか、向き直るのかで、その後の関わりが大きく変わる可能性もあります。

そのような機会を有効に生かすことができれば、より良い関係性にさらに磨きをかけることができるのでしょうね。

美の頂上 西田幾太郎

『花が花の本性を現じたる時、最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するのである。 西田幾太郎』

「花の本性」は、表面上は花が美しく咲いていて、人の目にとまり癒やしを与えたり、鳥や虫には、蜜を提供したり、それによって受粉を助けてもらったり様々な面が考えられます。

また、花を咲かせるために、一日一日、養分を吸い上げ、葉に日の光を浴びて光合成をして、必要な営みをたゆまずに続けているのですね。

庭の花は、家人がどれくらいの思い入れで、適切なケアができているかによって、咲き具合に差が出ます。

ケアをしていても、過度の肥料は、かえってダメージになります。

それよりも、日当たりとか、水やりとかが上手くいけば、最高の花を咲かせ、美の頂上を味わえることになるのですね。

一方、「人間の本性」とは?

人間が、人間らしい生き方ができる、その事自体でしょうか。

とにかく、マインドも含めた奥深いライフスタイルについてのテーマのように感じます。

花が咲くのを楽しみにするように、自分という人間のケア(可能な本性の改善)に向き合いたいですね。

最悪と感じる状況から最善を見つめてみる

「うわー最悪だあ」と感じることもありますね。

自分にとっては、求めていた成果は得られず、むしろ懸念していた結果になかったのですから、ショックは大きいでしょう。

でも、その様なときこそチャンスかも知れませんよ。

なぜならば、「最悪の山から、宝物を発掘することができるかも」知れないのですから。

最悪の山には、いくつかの最善も埋まっている可能性があります。

仕事上のコトで言えば、「定職になっても解雇にはならなかった」とか「与えてしまった損害について、賠償請求されなかった」などもありますね。

何よりも「ケガもなく生きている」という要素でしょうか。精神的にはショックが大きくダメージを感じてしまうのでしょうけれどね。

最悪という包装紙で届いたギフトですが、慎重に開封してみたら、自分にとってのステキなプレゼントだったのかも知れませんからね。

このようなマインドを習慣化すると、ダメージは最小限で抑えられ、次につながる知識・知恵の蓄積になります。

「期待すること」と「過度に期待すること」は、とても大きな差があるように感じています。

できるだけ「適度に期待をしたい」と考えています。あと少し、背伸びできるくらいの期待も…

有望な子に対して 箴言19:18

『望みのあるうちに息子を諭せ。死なせることを目指してはならない。(箴言19:18新共同訳)』

子に期待したいのが親心ですね。

最近は、熱心すぎるあまりに虐待されたり、命を落とすことになったりという、怒りのやり場に困るニュースが流れる時代です。子や配偶者に対して理不尽だと感じるコトもあります。

また、その背景は、加害者の自信のなさが招いているという指摘もあります。

子が優秀だと評価されれば、親としては「鳶が鷹を産んだ」などという心持ちになれます。

また、「蛙の子はカエル」といわれるように、よく似た雰囲気に成長していくことも多くあります。

でも、「親の理想」というものが、現実と相当な乖離があったり、親自身の実体験として、深く傷ついたアプローチを繰り返してしまうケースも数多くありますね。

親子といえども、別の人格ですから、客観視して伸ばせる可能性を本人共々、伸ばして行きたいですね。

期待をして、サポートすることは保護者の特権であり役目なのです。しかし、理想に届かないからと虐待をしたり、命を奪う権利など誰にもないのですからね。