永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

自由な労働環境はあるのか?

フリーランスが持て囃され、あるカフェでは、ノマド民が溢れていた時期がありました。

ある人は、「本当の自由を目指して「フリーランス」になったのだけれど、時間は不規則だし、収入は不安定だし、こんなハズじゃあ無かった。」と言っていました。

法人格を持って、バリバリ仕事をこなしている方がいる一方、ナカナカ仕事がとれないというため息も聞こえてきます。

考えてみれば、人間には得手不得手があります。

営業が向いている人、技術の細々した作業が向いている人など、それぞれです。

仕事になるかどうかの決め手は、仕事がとれるか否かですから、営業力が大切と言うことです。

でも、仕事をとっても、完成できなかったり、納期を守れなかったり、採算をとれなかったりすると、商売になりません。

このようなところから、営業が得意な人が仕事をとり、技術がある人が納期までに完成し納品して集金するという形態になるのですね。

それが、一つのサイクルですから、そのまとまりが、法人(会社)となって活動するわけです。

仕事をこなすだけで四苦八苦では、福利厚生なんて絵に描いた餅です。

大手の会社のすごいところは、ある程度の売上を達成し、人件費や福利厚生費を確保しているコトです。

本当に自由な労働環境が手に入れたかったら、この大手の会社をしのぐ内容の仕事をする必要がありますね。

働き方改革なども、よく聞く時代になりましたが、目の前のニーズと、それぞれの状況に、いつもミスマッチが起きるであろうコトは、想像に難くありません。

昔、チャップリンがつくった映画のモダンタイムズを思い出します。

「人間が歯車の一部になる」という象徴的な描写は大きなインパクトでした。

いつの時代も、人間は、仕事、責任、採算、休養、対人関係、家族などの板挟みになり、自由からは、ほど遠い現実があります。

自由な労働環境は、果たして手に入れた人もいるのでしょうけれど、まだまだ、少数派のようですね。

家族の温もりを乱すコト 箴言11:29

『自分の家族にわざわいをもたらす者は、風を相続し、愚か者は、心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言11:29新改訳2017)』

家族に問題を起こす人はいっさいを失い、奴隷に成り下がるかも知れない。と、読めば理解がしやすいでしょうか。

「風を相続し」と記してあるのは、何もつかめない、残らないというコトです。

厄介者だと自分で思い込む人や実際に、トラブルが絶えない人もいます。

昔なら、座敷牢に閉じ込めて、外に出さないでおくと判断したコトでしょう。

大きなお屋敷ならいざ知らず、今のコンパクトな住宅事情なら、到底隠し通せるものではありません。

これを読むと「放蕩息子」のストーリーが思い浮かびます。

弟息子が、父に前代未聞の生前相続を申し出て、莫大な財産をもって旅に出て、放蕩三昧、身代を使い果たします。すってんてんになって、オマケに、散財に群がった人たちは散り散りに離れ、知らん顔を決め込みます。豚小屋の豚のエサを羨ましいと思うまでに落ちぶれたことに気づき、父の所で、息子としてではなく、使用人として雇ってもらおうと思い立ち、実家に帰り着いたのです。父は、大喜びして弟息子を大歓迎しました。弟息子の決意とは正反対の結果になりました。これを一番面白くないと感じたのは兄息子でした。(ルカ15:11-32)

ここで、登場している弟息子は、「家族にわざわいをもたらす者」のようです。

そして、莫大な財産を相続しましたが、霧散してしまいました。まるで、札束をばらまくかのようです。それに、多くの人が群がったことでしょうね。

そして、父の所で息子としてではなく、使用人として雇ってもらおうと決意し、心を変えたのです。

放蕩息子のストーリーは、「悔い改めた者の救い」という流れがあるので、冒頭の聖句のもう一歩先に行っています。

でも、弟息子の心の旅は、「家族に問題を起こす人はいっさいを失い、奴隷に成り下がるかも知れない。」をたどっているのですね。

現実的に、大切な対応は、家族の中で誰かが「落ち着く」ことです。

そして、腹を括って、温もりを持って、しかも毅然と対応をするのです。

それらを経て、それぞれが取り憑かれている呪縛から、解放されていくのですね。

決して、容易い過程ではありませんが、どこかに道は備えられていると信じて、次の一歩を踏み出すエネルギーを確保して、あきらめずに歩を進めるのです。

気がつくと、きっと、今までとは別の景色が見えているコトでしょうね。

黙って服従する相手とは? アラン

『習慣はわれわれの偶像であって、われわれが服従するから強いのである。 アラン』

アランは、「現代のソクラテス」とも評されたフランスの哲学者、評論家、モラリストです。

アランはペンネームで、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエで、「幸福論」で有名です。

第一次世界大戦が始まると46歳で自ら願い出て志願兵となり、戦争の愚劣さを体験するために好んで危険な前線に従軍した。戦争が終わり、除隊後の1921年に戦時中体験した出来事を綴った『マルス、または裁かれた戦争(Mars ou la guerre jugée)』を著したが、愛国者の怒りを買った。

ja.wikipedia.org

 

 

命をかけた実体験から、戦中体験を独自の目線からするという冒険心に富んだ一面を感じます。

その内容は、愛国者の怒りを買うほどの真相を記していたのかも知れませんね。

そのアランのフレーズには、思わず引き寄せられました。

習慣化の大切さをヒシヒシと感じているので、その習慣を変えることがどれ程難しいコトかという発想をもっているのですが、これは、現実的な真相を暴露していますね。

人間が、黙って服従してしまう偶像が習慣とは、まさにその通りですね。

毎日の習慣は、自分の意志で行っているはずですが、どこか惰性で行っている部分があるように感じています。

どうして、その習慣を引きずっているのか考えないで、それをモクモクと繰り返しているのです。

モノの仕分けでも、分類を決めて、「入りと出」を管理する習慣を採用していれば、散らかり続けることはありません。

でも、「入りと出」のバランスが崩れて、保留状態が多くなれば、たちまち、荷物の山が出来上がります。

時間の使い方でも、TVや動画のダラダラ見から抜け出せないと嘆いている人も多くいることでしょうね。

無意識に、自分がその習慣に、服従してしまっているのですね。

その偶像に、時間を吸い取られていると考えた方が良いかも知れません。

それぞれの偶像は何か? という正体に意識を向けて気づくことが、習慣を変える第一歩でしょうから、そこにフォーカスを合わせていきたいですね。

人に頼む時に気をつけたいこと 当日キャンセルはしない

仕事をするには、様々な形態があります。

正社員、契約社員、パートタイマー、外部委託などです。

正社員や契約社員は、就業規則に従って仕事を進めるので、余程の事がない限り、会社に行けば仕事を始められます。

最近では、テレワークという形態ができたので、不慣れで困っている方もいらっしゃるようです。

また、パートタイマーは、決められたシフトの中で、仕事に入ると言う形式ですね。

人員調整で、シフトの希望を入れても、以前よりもかなり勤務時間が減り、死活問題だと言う声も聞きます。

シフトのミスマッチは、以前からあるようで、勤務時間が少ないと、数カ所を掛け持ちして、生活費を稼ぐという話もありました。

外部委託は、専門性がある内容を請負でする形式です。

法人間取引もあれば、フリーランスの個人との取引もあります。

法人間取引は、契約書を伴うケースであれば、業務の流れや請求管理などでのトラブルを回避できるような工夫があります。

フリーランスの場合は要注意です。

口約束で随意契約になっている場合、ある日、仕事をするつもりで、指定の場所に出向いたら、「仕事がなくなったので、また連絡します。」と言われることがあります。

当日キャンセルどころか、ドタキャンです。

その場に行く前に、告知されていたなら、その時間の予定を考えておくことができたのでしょう。

請負のフリーランスですから、そういうこともアリだとは思いますが、今後の関係には影響が大きいでしょうね。

双方の信頼関係で、仕事が成立していたのですが、受ける側は、完全に切られる形になったのですからね。

仕事を依頼するときには、また、約束をするときには、これらの配慮をできる限りする事が大切ですね。

また、値引きプレッシャーということもあります。

デザイン的な作業は、時間をかけて、その対価として請求します。ですから、ほぼ人件費と考えてもよいわけですね。それを、「できるだけ安く」と言われるのです。

世の中、皆さん大変なのでしょうね。

今の時代を反映した知り合いのお話です。「飲食店のドタキャンはもっと酷いかも」とも言っていました。

フリーランスとして、逞しく生きて下さいとエールを送りたいです。

契約の箱に隠されたヒミツ 出25:10-16

『アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。(出25:10-16新改訳2017)』

長さの単位は、キュビトは肘から指先までの長さを用いていて、体格によって個人差があります。

標準的には約44cmと言われ、それに基づけば、長さ110cm、幅66cm、高さ66cmと言うことになりますね。

材料は、アカシア材(マメ科ネムノキ亜科アカシア属)で、翻訳によっては合歓木(ねむのき)と記されています。アカシアの樹木は硬く、腐ったり虫に食われたりしないため、聖書においては「不朽不滅、永遠」を象徴する。

さらに、純金でコーティングするので、不朽に太鼓判が押されたイメージですね。

この中には、十戒を記した石板2枚とアロンの芽ざした杖とマナ(メシア自身を表す)を入れた金の壺が収められました。

箱に直接触れないために、移動させるときのため、担ぎ棒を用意して、それも純金でコーティングし、本体に輪をつけて、この棒は差し込んだままにしました。

また、フタの上には、一対のケルビム(智天使)がのせられました、もちろん純金製です。

石板は、律法板(新共同訳)あるいは証板(新改訳)と記され、創造主である神と選びの民であるイスラエルとの契約を表しています。

アロンの芽ざした杖は、出エジプトの時に数々の神の御業が成されたコトを記念して、マナは、イスラエルの民を養うための完全栄養でした。不思議な食べ物で、メシアご自身を表現していました。

この時代は、旧契約時代でしたから、十戒を一部分とする律法を元にした契約がベースでした。創造主である神は、約束を必ず守る御方です。

今の時代は、新契約時代ですから、神と信仰者との間には、新契約をベースにした関係があります。

契約の箱には、創造主である神の臨在(シャカイナグローリー)がありました。

この契約の箱は、幕屋の最も奥の部屋(至聖所)に置かれていました。そこは、ぶ厚い幕に覆われていましたから、昼間でも真っ暗です。

年に1度、大祭司が犠牲の血を持ってその中に入り、その血が受け入れられると、明るい光が灯ったと言うのです。これが、まさにシャカイナグローリーなのですね。

旧契約をベースにした創造主である神との接点が、この契約の箱だったのです。

日本の社の形式が似ていると言われますが、神体を奥の院に安置するという発想をすれば、似るのが必然ではないか?という考え方もあります。

動画 舐めんなよと言いたくなるほど?


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5人がかりの全力エステティックサロンのようです。

ネコちゃんを可愛がるのは、人間だけではないのですね。

どうして? このようなことになっているのかはわかりませんが、ネコちゃんはどのように感じているのでしょうね。

グルーミングは、動物にとって大切な要素ですが、度を越えると「もういい加減にしてーー」と言いたくなるくらいではないでしょうか?

5頭のゴールデンレトリバーと仲良く暮らしているのでしょう。

日常の様子かも知れませんが、撮影のために何かががあったとしたら引いてしまいますね。

ひとしきり舐められた後のネコちゃんの表情が何とも疲れ切ったように見えたのは私だけでしょうか。

何事も、ほどほどがよろしいようですね。


人間関係で「舐めるな!!」という局面があります。

それは、自分が相手に、人間としての扱いを受けられず、まるで、ペットに対するような「軽んじられる」局面がその語源のようです。

動物同士が舐め合うのは一般的ですが、人間同士が公然と舐めるのは、あり得ないことですよね。

世の中には、自分が一番でないと気が済まないマウント族がかなり生息していますから要注意ですね。

適度な距離感と毅然とした対応が大切です。

ネコちゃんでも、舐められすぎて大変な思いをしているようですから、人間にも適度な警戒心が求められますね。

生きるとは? 時間とは? ミヒャエル・エンデ

『時間とは、生きるということ、そのもの。そして人のいのちは心を住みかとしている。 ミヒャエル・エンデ

本家のドイツについで世界で二番目に日本で売れている「モモ(児童文学)」の中に出てくるフレーズです。

ナチス召集令状を破り捨て、反ナチス運動に参加していたミヒャエル・エンデにとって、自分のいのちを脅かす勢力に関して抱いていた嫌悪感のような雰囲気を、私は感じます。

大衆は、権力に飲み込まれ、ささやかな自分の自由さえも奪われるという光景はショッキングであり、その状況を児童文学のカタチとして描写していたのではないでしょうか?

小学生に聴診器で、心臓の鼓動を聴かせながら「いのちの授業」をしていた日野原重明医師のことを思い出します。

時計が時間を刻むように、人間も心臓の拍動によって生きている。

そして、心にいのちが宿るという流れは、抵抗感なく受け入れられるのではないでしょうか。

でも、現実的な時間の使い方を問われると、ToDoリストにせき立てられるような日々を過ごしている人が多数いそうですね。

当事者でなくても、家族の中に一人でも、そのような人がいれば、モモの心境が理解できると思います。

「時は金なり」と時間が貴重であるという表現があるが、それは、いのちと合わせて考えるならば、置き換え不可能な「掛け替えのなさ」を滲ませているようにも感じられます。

時間の使い方は、生き方、そして、いのちをどのように扱うかに、かかっているのですね。

 

解釈
ストーリーには、忙しさの中で生きることの意味を忘れてしまった人々に対する警鐘が読み取れる。『モモ』という物語の中は、灰色の男たちによって時間が奪われたという設定のため、多くの書評はこの物語は余裕を忘れた現代人に注意を促すことが目的であると受け止めた。編集者の松岡正剛は、「エンデはあきらかに時間を『貨幣』と同義とみなしたのである。『時は金なり』の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせた」と評した。
「時間」を「お金」に変換し、利子が利子を生む現代の経済システムに疑問を抱かせるという側面もある。このことについて、エンデ本人に確認を取ったのはドイツの経済学者、ヴェルナー・オンケンである[7]。

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ミヒャエル・アンドレアス・ヘルムート・エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende, 1929年11月12日 - 1995年8月28日)は、ドイツの児童文学作家。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。日本と関わりが深く、1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚している。また、日本の黒姫童話館にはエンデに関わる多くの資料が収集されている。

ミヒャエル・エンデ - Wikipedia