永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

相手を変える動機のアプローチはほとんど失敗する

「困った!」と言う時の相談は、かなりの確率で、自分ではなく相手を変えたいという内容です。

でも、これはほとんどのケースで失敗します。

不登校や引きこもり、対人関係での意見の相違が起きると、自分に非がないと考えれば考えるほど、相手に変化を求めます。

流れから考えても当然のことですね。

でも、その前に観察して確認しておく大切なポイントがあるので記しておきます。

それは、今の状態を知ることです。

よくあるアプローチは、相手に言葉や態度でプレッシャーをかけてしまうケースです。

追い込まれれば、相手は言葉では「変わります」と言わざるを得ないのですが、その約束が果たされることは、まずありません。

それは、相手の意識と身体が逆行しているからです。

生活が変わると、身体も変化をします。その変化にほとんどの人が気づけないまま、「気合い」や「ごほうび」で、身体にムチを入れて動かそうとしている状態です。

「状態を知る」こととは、意識や身体の状態を本人と一緒に、確かめていくというイメージです。

例えば、「風邪を引いて熱発して、喉が痛く、水分をとるのも大変」とわかれば、なんとかいのちを保てるように水分を摂取できるような工夫を考えますね。

安心していられる居場所を探し、いのちを保つ対策をするところからはじめるのです。

「変えようとするな。わかろうとせよ」という教訓の「わかろうとする」アプローチですね。

そして、本人が主体性を持って考えたり、活動できる範囲を探ります。引きこもる人の背景要因で大きいのは、「防衛本能」だと考えられています。

つまり、本人は、自分が「大丈夫」な場所を求めているのです。

人間が活動できる範囲は、そこそこ大丈夫でも、キケンと隣り合わせです。

何かがあれば、警察の助けを借りなければ乗り切れないこともあります。

でも、そのような対処も含めて「大丈夫」だと考えられるには、本人の中に「大丈夫」が積み上がるステップが必要不可欠です。

これに向けて、共同作業が必要です。

本人の中での混乱や葛藤をどの様に支えていくかが、サポーターの課題なのですね。

「原因探し」や「犯人捜し」が先行することなく、本人の中で「大丈夫」が熟成されることに寄り添うイメージですね。

参考資料:学校に行けない「からだ」諸富祥彦 著

天の光景 御座の前は水晶のような海 ヨハネの黙示録4:6

『2 たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。3 その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。4 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。5 御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。6 御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(ヨハネの黙示録4:2-6新改訳2017)』

パトモス島に幽閉されていた使徒ヨハネは、【主】から幻を見せられて、その内容を記録しています。

ここでは、天の光景を描写しています。

人間は、未知の空間を見せられても、それを描写・表現する事は難しいですね。また、人間社会には、「コトバの壁」がありますから、それを超えて理解を進めるのには、多くの課題があります。

御座についている【主】について「その方は碧玉や赤めのうのよう」と表現されています。

また、「御座の周りには、エメラルドのように見える虹」があるとも記され、さらに、「御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のよう」と表現されています。

これは、創造主である神【主】の絶対的権威の表現が、宝石で描写されました。それは、大祭司の胸にイスラエルの12部族を表現する12個の宝石がつけられていたことにも関連しています。

その関連付けは、本物のユダヤ人(【主】の宝の民)には、わかりやすいという【主】の配慮でもあります。

また、宝石の表現は、エゼキエル28章に記されている「天のエデン」は宝石に輝く所としても描写されています。

「水晶に似た、ガラスの海」という表現は、出エジプトの後に、モーセシナイ山に登った時に広がっていた光景(出エジプト24:9-10)と同様の描写がなされています。

天は、間違いなく「光に包まれた所」です。そこで、途切れることがない「真の礼拝」がなされているのです。それは、永遠に途切れることがないようです。

ここに出てくる「白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たち」は、携挙された聖霊シルシを受けた信仰者たちの集合体である「教会」を意味しています。

ディスペンセーションの立場をとれば、「患難期前携挙説」なので、ペンテコステ以後の信仰者は、患難期を免れると考えられています。その理由は、ヨハネの黙示録の患難期に関する箇所には、教会に関する記述がないと言うことからです。これを考えると、今の時代に信仰を持つのがベストチョイスなのではないでしょうか?

「御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。」と記されているのは、聖霊の7つの性質(働き)を表しています。

そして、「御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。」は、4体の天使を意味しています。この天使達は、特別な任務があり、その姿も一般天使とは違うようです。

この箇所は、天の光景を垣間見ることができます。これは、地上に生活する人間の想像を遙かに超えていますので、にわかには信じがたいと思うかも知れません。

実際の光景を見た時に、どのように感じるかを楽しみにしておきたいと考えています。

動画 子どもの声は分かる母はすごい


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アメリカ・オハイオ州リバティタウンシップに住んでいる幸せなネコちゃんです。

プリシラという母猫は、毎朝、裏庭を軽く散歩するために出かけるそうです。

この日、プリシラは近所の誰かに会うために通りの向こう側へ行きましたが、飼い主の呼びかけを無視してかえってきません。

そこで、飼い主は、生まれたばかりの子猫のキングを持ち出して彼女を呼びました。

その呼びかけは、すぐに母猫プリシラに届き、すぐに走ってかえってきました。

あっという間の動画ですが、母猫を呼ぶ可愛い声と、それを聞いて駆けつける母猫の様子がきっちり収められています。

野生の本能でしょうか?

「あっ子ネコちゃんが鳴いている。どうしたのかな?」という感覚が一般的なような気もします。

しかし、母と子には、特別な絆があるのかも知れませんね。

それが、人であろうと動物であろうと。

最近、人間の世界には、育児放棄や虐待がかなり多くある実体が浮き彫りになり、それを考えるとスゴく悲しい気持ちになります。

この動画は、そのような気持ちを少し和らげてくれるような、母子関係を見る事ができるように感じます。

人間でも、近親者の声は遠くからでも判別可能な範囲がありそうです。

また、それを超えた「虫の知らせ」という範囲もあります。

夢の中で苦しんでいたその人が、その時に、症状が悪化していたり、ちょうどそのタイミングで亡くなったりという「あれ」です。

どちらかと言えば、「その人が無事で幸せに生きている」という知らせの方がよいのですが、どうやら具合が悪い時に感じるコトが多いようですね。

この世の中に、良好な親子関係が、増えると良いなと願っています。

腰を据えた人生へ ニーチェ

『しっかりと自己の上に腰をすえ、雄々しく自分の両脚で立たなければならぬ。 ニーチェ

ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおしたとされています。

自分なりの解釈をすることで、その時代になかった思想を生み出しました。それは、今の時代でも、ニーズがあり、人生の岐路に立たされた人が、ニーチェの名言集を読む姿を見ます。

ニーチェは、ソクラテス以前の哲学者も含むギリシア哲学やアルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受けていると言われます。

彼は、幅広い分野の読書し、それによって、革新的な解釈をしました。

周囲の価値観をそのまま受け止めるのではなく、自分の中で再解釈をしたのですね。

ただ、彼の中にも、時折、混乱が起きたようです。警察沙汰になったり、入院を余儀なくされたりしたようです。

人間は、考えれば考えるほど、迷宮に入り込んでいく一面があるのでしょうか?

しかし、このフレーズは、彼の基本的なスタンスを折り込んでいるように感じます。

晩年には、無国籍になる選択をしているのですが、その時にも、この精神で決断したのでしょうね。

今の時代的に表現するなら、「自立」という意味合いをイメージします。

それは、「精神的自立」「社会的自立」「経済的自立」「思想的自立」という流れでしょうか。

今日でも、選択を一つ間違うと孤立しかねない決断です。

ニーチェの時代に、この発想を持つというのは、かなり勇気が必要だったのではないかと推察します。

腰を据えて、自立と共存の接点を注意深く見つめていきたいと考えています。


フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツ・プロイセン王国出身の思想家であり古典文献学者。又、Nietzscheをニイチェと表記する場合も多い。
概要
現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版、ドイツ語版)に才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離脱して無国籍者であった[1][2]。辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。

ja.wikipedia.org


世界文学大系」(筑摩書房)

洗剤と書いてあったら気をつけた方が良いこと 経皮吸収 手袋

化学合成洗剤の全盛の時代です。

売店で販売されている洗剤は、99%化学合成洗剤のようです。

どうしても、洗浄力を求めると、効果てきめんな商品に魅力を感じてしまいます。

でも、界面活性剤の多くは、排水されても分解されないと指摘されています。(環境問題)

また、個人差が大きいのですが、アレルギーに関する影響もあります。(健康問題)

食器洗いをイメージしても、油汚れをキレイに落としたければ、界面活性効果が高い洗剤やある程度のお湯を使用する必要があり、手荒れの原因になります。

手荒れは、手の表面のダメージだけではなく、化学物質が経皮吸収されやすくなりますから、注意する必要があります。

経皮吸収は、3つの経路があります。
付属器官経路(毛穴や感染からの吸収)と細胞間隙経路(細胞と細胞の間を通り道に吸収)細胞実質透過経路(細胞内を通過)です。

皮膚についたものは、表皮から真皮へと浸透していきます。

毛穴や汗腺からは2%程度、細胞と細胞の間を通る経路と細胞内を通る経路がその他です。
一番吸収性が高いのは、毛穴から入るケースです。

人間の肌には、皮脂膜という天然のバリア機能が備わっていますが、アルコールなどの化学薬品は、この皮脂膜を破壊します。

経皮吸収は、「臓器を通って、ある程度、解毒される経口吸収」と違い、全身に広がるスピードが速いので、注意が必要なのです。

ですから、洗剤を使う時には、「手袋を着用した方」が、経皮吸収を防げます。

ただし、洗顔や歯磨き粉などでも、それなりの化学物質が入っていますから、体調に合わせて、調査や精査が必要ではないでしょうか?

便利なものは、生物と共存するのは、難しい一面がありますから、その観点に立ち戻って、考えて見る必要もあると考えています。

これは、健康や地球環境の改善にとっても重要なテーマですね。

今から、できることを考えていきたいです。

プライド(尊厳)の守り方 箴言5:7-8

『7 子たちよ、今、私に聞け。私の口のことばから離れるな。8 あなたの道をこの女から遠ざけ、その家の戸口に近づくな。(箴言5:7-8 新改訳2017)』

「プライド」と口にすれば、生意気なヤツと叩かれがちですが、「誇り。自尊心。」という意味があります。

等身大の自分を支える尊厳は、自分自身を支えるためにも大切な「自信につながる要素」だと理解しています。

人間には、存在不安が付きまとい、時には、人のぬくもりをニセモノでも味わいたいという誘惑に駆られますが、それは、解決にはなりませんね。

かえってそれが、人生の汚点として、時には、黒歴史として、自分を苦しめることになるかも知れないからです。

寂しい人は、たえずターゲットを狙っています。その餌食にならないように注意が必要です。

『33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。(1コリント15:33)』

これも、自分のプライドを防衛するためには、重要なことです。

また、時には、「価値観が違う集団」に取り囲まれて、集中砲火を受けることがあります。

このような時には、心身共にダメージを受けますが、例え、ツバをかけられても、生卵をぶつけられても、それは、洗い流せば大丈夫です。

その様な時に、「自分のプライドに対するダメージ」をどのようにリカバリーするかが大切です。

自分を踏みにじろうとする勢力は、土足で踏み込んできますが、それは、ハッキリ「No」を突きつける必要があります。

思想の自由、意見の相違、見解の相違、契約の自由があるのだと伝える必要があります。

あなたの心は、あなたの自由意志で管理される領域ですから、それを大切に守って下さい。

さらに、あなたを支える力強い聖句もあります。

『4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:4)』

創造主である神【主】は、人間を創造し、その生命の限り、守って下さることを約束して下さっているのです。

これこそが、「私の口のことば」なのですね。

ここに、軸足を置くことで、自分のプライドを適確に守っていくことができるのです。

自分にリスペクトできる生活 マクシム・ゴーリキー

『自分で自分を尊敬できるような生活、しなきゃならねぇということだ…………..。 マクシム・ゴーリキ』

「歌と酒だけを娯楽に日々の生活を送っていく」情景が描かれている「どん底(戯曲)」の中に出てくるフレーズです。

どん底にいる人たちの様子を描いていますが、ペンネームをロシア語で「苦い」という意味を持つ「ゴーリキ」にしている感覚が、いかんなく発揮されているように感じられます。

人間の日常は、今いる所が、「どん底」だと感じやすいですが、本当にそうなのでしょうか?

束縛感を感じては、自由を求めますが、その方向性は、どこに向かっているのでしょうか?

でも、このフレーズは、どこに居ても、だれといても、どの様な状況でも大切なことを示唆しています。

それは、「自分で自分を尊敬できるような生活」をするという意欲だと解釈できます。

自分が居る位置を嘆くのではなく、他人に責任を探し求めるのではなく、状況を恨むのではなく、自分自身に焦点を当てた考え方です。

でも、「歌と酒」に囲まれた中で、これを口にすると、白い目で見られそうですね。

自分の気づきが、周囲とは異質なのですから、それは、当然のことです。

そこからが、勝負のしどころです。

これほど、険しいチャレンジは、そうそう、ないのかも知れません。

少しずつ、この意識を積み重ねていくと、自分自身の変化が、周囲に広がっていくことでしょうね。

「隗より始めよ」と言われるように、まず、自分自身が、自分と膝を突き合わせて、向き合ってみることです。それは、鏡に向き合い、自分の姿を知り、受け入れていくことに似ていると考えています。

自分のアラ探しをしたくなりますが、あえて、自分のありのままの姿を知り、現状を把握するという意識が大切ですね。

そこからが、自分にとって、次の幕が上がる時なのですから。

 

マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький, 旧綴: Горькій, 1868年3月28日(ユリウス暦3月16日) - 1936年6月18日)は、ロシアの作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексе́й Макси́мович Пешко́в)。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦い」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった。

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どん底』(岩波書店)
犯罪を犯さないものも、貧困という牢獄から抜け出すことを夢見ながらも、抜け出せない。誰一人幸福になることがなく、どん底にいる市民たちは、歌と酒だけを娯楽に日々の生活を送っていく。

どん底 - Wikipedia