永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

モーセの律法とキリストの律法 2コリント3:6 1コリント9:21

『神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(2コリント3:6新共同訳)』

『また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。(1コリント9:21新共同訳)』

 

文字とはモーセの律法を表します。これは、モーセの律法には、人間を義と認めることも、聖化する力もありません。

新契約の考え方は、信仰を表明するときに義認され、聖霊が内住します。そして、信仰者の内側に刻まれた救いによって聖化が始まるのです。

ですから、新契約時代の信仰者に大切なのは、聖霊の愛の律法が大切なのです。

これは、「キリストの律法」または「メシアの律法」と言われます。

信仰を表現するとは、キリストの律法を全うすることであり、愛を全うすることになります。

また、キリストの律法には、神への愛と隣人への愛が含まれています。

つまり、神に対する関係で、創造主である神がメシアであるイエス・キリストの十字架で死に葬られ三日目に復活されたことにより罪科が贖われたことを信じること、そして、永遠に信仰者と共にいて下さることへの信頼を得て、平安を実感することができるのです。

また、隣人への愛は、自分を愛するように、周囲の人へ愛を実践することです。このためには、まず、自分自身への健全な愛が必要です。また、信仰の自立や精神的自立も大切です。

これは、聖霊の働きによってこそ成立するものです。

聖霊の内住による働きの表れとして、これらが、実体となってくるのですね。

新契約聖書の書簡中にある教えは、キリストの律法が説かれています。それらを通じて、今を生きて行くヒントを得ることができます。

すでに完成されたモーセの律法の存在価値とは何でしょうか?

今の時代の信仰者は、モーセの律法から、多くの適応を学ぶことができるので、その背景を知っていくことは、非常に有益なことなのです。

ですから、旧契約聖書と新契約聖書を通しての学びを継続するのですね。

それらは、メシアであるイエス・キリストが流した血、「紅の糸」で貫かれているのです。

動画 誰かに撫でて欲しい気持ちわかりますね


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「大人になっていても、たまには誰かに頭を撫でて欲しい」というお話しを聞くことがあります。

この動画の中に登場する小鳥ちゃんは、そのような気持ちを代弁してくれているようにも感じますね。

飼い主が、そばに手を持って行くと、その形を見て、小鳥ちゃん自身が、頭をすり寄せて来るのです。

こんなコトされたら、飼い主は余計に愛おしくなってしまうことでしょうね。

愛情表現なのか、気持ちよいだけなのかは分かりませんが、双方に信頼関係が成立しているのは理解できますね。

「ペトッ」なんて、音が聞こえてくるようなフィット感ですからね。

愛情確認や承認欲求は生き物が求めるモノなのでしょうね。

それが、心を落ち着かせ、明日へのエネルギーに変換されていくのでしょうからね。

究極の選択 サミュエル・ジョンソン

『結婚は多くの苦痛を持つが、独身生活は喜びを持たない。 サミュエル・ジョンソン

人生の選択は、結婚だけではありません。

結婚も良し、独身も良しが基本です。

結婚しても、子を授かるとは限りません。これは、天の決めることです。

世の中の評価は、個々の願望のものさしの表面化ですから、著しくばらつきを感じる人も多いことでしょうね。

独身の男性は、世間的評価を冷たく感じると表現しました。別の言葉で言うと、「一人前として扱われていない」でした。

また、子を授からない夫婦についても「差別的なアプローチ」があることも現実です。

一人でいることも、結婚することも、子が授からないことも、子が授かることも、それらは、天が決めることなのです。

冒頭のフレーズは、人生の選択をしたとして、果たしてどのような心境の変化があったかを巧みに表現しているように感じます。

結婚には多くの苦痛があるが喜びもあると解釈するコトができますね。

また、独身生活は気楽な部分もあるが、結婚生活のような喜びは感じられないというイメージでしょうか?

いずれにしても、人生を生きていく道は、平たんではありません。

自ら選択した道を満喫していきたいですね。

また、自分にはこのような選択肢しかなかったという方も増えてきているようですが、その位置を受容可能ならば受容して、変える必要性を感じたならばチャレンジして、より良い自立人生を歩めることを願っています。

人が用いる言語とプログラム言語

人間は、言語を活用できる能力を与えられています。

かつては、ヘブル語だけだったようですが、人間が自らのチカラで天に到達するというバベルの塔プロジェクト(創世記11章)が始まったときに、創造主である神は、多言語化をするという裁きを与えられ、それによって、バベルの塔プロジェクトは頓挫しました。

それは、天に到達するのは、人間には不可能であるコトを示すためであり、やがての時のために、あえて言語に乱れを起こさせたのです。

この言語は、実に不思議で、文法通りに用いている人は、極々少数派です。

さらに、仲間同士でしか分からないようなスラングや方言などが非常に多くあるのが現状です。

それでも、いつも一緒にいる間柄では、「あれ」とか「それ」で通じたり、非言語でも通じてしまうこともありますから、非常に不思議です。

一方、コンピューターの飛躍的な普及により、世界中の多くの人が、その恩恵に浴しています。

しかし、実情はデジタルコンテンツを見る人が大多数であって、コンテンツを制作したり、プログラムを開発したりする人は少数派です。

プログラム言語は、構文が違ったり、スペルミスがあると動きません。

動かないだけならまだマシです。よく似たコマンドを入れてしまうと、まったく制御不能な暴走状態に陥る懸念もありますから要注意です。

AIと言う分野が、注目を浴びている21世紀ですが、これも人間がつくりだしているもので、なかには作り手のユーモアで工夫されている一面もあり、微笑ましいのですが、完全なものではありません。

まだまだ、人間の曖昧な表現を理解して、連携ができる実用レベルに達している分野は少ないでしょうね。

人間同士のコミュニケーションが素晴らしいのは、言語を通じて、また、五感、第六感をフル活用したレベルにあるコトです。

これにも、大きな個人差があるのですが、少しでも、より良いコミュニケーションができれば幸福感も最大化されることでしょうね。

真実の富と誉れ 箴言8:17-18

『わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。富と誉れはわたしとともにある。朽ちない財宝も義も。(箴言8:17-18新改訳2017)』

「わたしとともにある」と言われるのは、創造主である神ご自身です。

財産権という法律的根拠はありますが、地上の財産に、人間は勝手に名前を書いたり、所有権を主張したりします。

でも、それは、この世に肉体的生命が保たれている間だけです。それは、この地上からは持ち出すことはできません。

人間は、豪邸を所有している人を羨ましいと思ったりすることがありますが、野生の動物たちは、お金を持っていなくても、生きています。

その差は何でしょうか?

そして、本当にスゴいのはどちらなのでしょうか?

私が考える本当にスゴい存在は、創造主である神に生かされている野生の動物です。

少々、エサをあげる人はいるでしょうけれど、天体を、そして、自然界を維持管理しているのは、創造主である神だと私は考えています。

その恩恵に預かって、野生の動物も人間も生かされているのです。

人が所有していると考えているモノは、たいてい朽ちていきます。

でも、創造主である神は、朽ちない財宝をキープしておられます。

約2000年前、遠く離れた地から、天体を研究する博士が、ひときわ光る星に導かれて、メシアであるイエス・キリストが地上に誕生したことをお祝いするために駆けつけました。

そのように、創造主である神を熱心に探し求めると、そこには、朽ちない財宝も義もそろっているのですね。

なおかつ、永遠の生命(永遠の幸福マインド)もセットで手に入るのですから、このチャンスを逃すともったいないですよね。

愛は命がけ 太宰治

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『愛することは、いのちがけだよ。甘いとは思わない。 太宰治

世の中にインパクトのある作品を出す作家さんは、結構、桁はずれた破天荒さを持っている傾向を感じます。

その中の一人が、太宰治だと考えています。

「一切合切凡庸な」といえば、最近の流行歌の歌詞に使われていましたが、そのような枠に収まるような感覚では無いようです。

作品を読む多くの人は、「一切合切凡庸な」方々ですから、破天荒な作品が、疑似体験であり、インパクトがあるモノになるのでしょうね。

そのような中で、冒頭のフレーズです。

無謀に略奪を企むケースもあり、相手を生かすために、自分のいのちを差し出す覚悟を持つというのも、様々なケースをイメージします。

ほのぼのとした愛は、ほんの一握りなのかも知れないと考えるほど、生き物の愛は命がけのようです。

人間同士でも、好き勝手にくっついたり離れたりしますが、無意識でも実際には、かなり命がけなのですね。

愛は、命をつないでいく流れの中で、いろいろな反応が起きていて、同性のサバイバルゲームや異性の奪い合いなども含めると、生きながらえるのがキセキだと思うしか無いような出来事に満ちていますからね。

その愛を躊躇なく適宜適切に発揮している方々に支えられて生きながらえていると考えるコトにします。

安心感を得るためのコスト

「○○してますか?」

国民的ヒーローの有名人が、語りかける警備会社のCMをほとんどの人が見聞きしているコトでしょう。

そのステッカーだけ貼るという人もいます。さすずめ魔除けの札という所でしょうか?

しかし、実際には、ワルの上をいくワルもいるようで、そのステッカーが貼ってあるところには、お宝があると目をつけて狙うという話もあります。

世の中、何を頼りに身の安全を確保すると良いのか分かりませんよね。

全くないのも困るのがお金ですが、あり過ぎて困っている人もいるのが現状です。

お金を腹巻きの中に大量にかけながら、道ばたで亡くなるという報道を目にすると、その人のそばにあったお金は、その人を守れなかったという事実に、空しささえこみ上げてきます。

居住空間もテーマの一つですが、身に纏っている衣類も安心感につながるアイテムですね。

この衣類は、素材もデザインも値段も千差万別です。

機能性が高い、着心地が良いコスパが良い衣類も増えてきました。

その中で、自分が纏って安心感が得られるものを見つけることができたとしたら、それは幸せなコトですね。

自分が安心かを得るというのは、何かから守られることも含めて、適切なコストをかけて選択できることです。

何を得たいかにより、コストは異なりますが、今の時代、捜すといろいろなサービスがあります。

デジタルコンテンツなら、サブスクリプション(月額定額制)で、音楽も動画も電子書籍なども活用できます。

また、ファッションアイテムなどもサービスが広がってきているようです。

所有する時代から、身軽に必要なモノを必要なだけ使える時代になってきました。

実際、使うときには、そのサービスと、自分のニーズがどれくらいマッチしているかを検討してみる必要はあります。

自分に合う安心感を得るサービスがあれば、様々なプレッシャーから距離を置き、幸福感を引き寄せることができますね。