永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

見つからないのは愛の表現 太宰治

『愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。 太宰治

人生は愛に包まれているはずなのに、その愛を実感できない人が多いですね。

それもそのはず、太宰治は、愛の表現と作法が見つからないと考えていたようです。

「アイノカタチ(MISIA)」と言う曲があります。

その歌詞は、自分の胸の隙間をうめるピッタリとした、自分に合う愛のピースを捜しているように聞こえるので、多くの人の共感を得ているのでしょうね。

確かに、「愛はある」のですが、「どれが自分のためなのか?」わからないということでしょうね。

相手を思いやる秘めた愛は、自分だけの宝物ですから、影響範囲は最低限です。

しかし、自分が「相手のために」と考えても、相手が受け容れ難いような表現や作法では、困惑や迷惑になりかねません。

また、相手の欲求やニーズを満たすことだけが愛でも無いようにも感じます。

たとえ親子のような近しい関係であっても、別人格ですから、適度な距離感が必要です。

また、愛が成立するためには、当事者間で互いの同意が前提条件になりますね。

私がもう一つ大切だと感じているのは、愛を素直に受け取る作法です。

変なプライドや照れが邪魔をして、相手の気持ちをはぐらかしてしまうことがあるとすれば、非常にもったいない話です。

相手と同じ目線、それよりも下で、「有難う」と受け取ってみると、幸福感が倍増することでしょう。

愛に包まれていることを実感していきたいですね。