永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

自由なのか束縛なのか ヨハネ8:31-32

『 ◆真理はあなたたちを自由にする
エスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32新共同訳)』

人間は、束縛さえ自分のサポートと勘違いしてしまいがちです。

それも仕方がないことです。それは、アダムとエバのエデン追放から、DNAに「罪と死の恐れによる奴隷」が刻み込まれているからです。

これは、余程の決意で、自由の領域に飛び込まなければ、解放されるモノではないようです。

しかし、人間の肉体的生命には、このDNAは染みついていますので、自由を知った信仰者といっても、自由と束縛の間で葛藤して一生を過ごすことになるのですね。

自由を実感できる時間が長い人は幸せを実感できるのでしょうね。

また、この自由を心地よいと感じるかどうかは別問題です。所在なさも伴いますからね。

筆者は、自由と束縛の間を行き来するのだとというイメージが自然体なように感じています。

大切なのは、信仰による自由な領域があること、そして、そこは、平安の領域であることをイメージして、いつでも信仰によって、その領域に居ることができるという確信です。

その真理とは、「罪から来る死の恐れという奴隷状態」から解放されるという、唯一無二の道が備えられたことです。それは、100%神であり100%人となったイエス・キリスト(第二位格)が十字架に架かり、死に、葬られ、三日目に復活したことにより完成されたというのが、真理の背骨なのですね。