永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

隣人との関係 実は… 箴言14:21

『21 自分の隣人を蔑む者は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。 箴言14:21新改訳2017』

「あわれむ」という言葉に嫌悪感を覚える人も少ないと感じるコトがあります。

それは、おそらく、プライドの問題ではないかと推察します。

その背後にあるのは、「優劣意識」でしょうね。あちらこちらから降り注ぐ言葉に「上から目線」と感じるなら、自分自身の立っている場所を確認する必要があるのかも知れません。

人生には、浮き沈みが付き物です。ある人は、大豪邸からホームレスになどという、ジェットコースターもビックリという落差を経験する人もいます。

ホームレスに生活援助をしているボランティアの話を聞く機会がありました。飲み物や食べ物を持っていっても、最初は断られることが多いそうです。もちろん、口から入れるものですから、信頼関係がなければ受け取られないという想像は働きます。

でも、あなたから、憐れまれる理由がないという気持ちもあるようです。そのプライドがその人を支えている部分があるのでしょう。

このようなやり取りを聞くと、「お互いに対等な目線での援助の必要」を示唆されているように感じます。

さて、聖書の中で、衝撃的な落差の人生をおくった人物がいます。

その代表が、メシアであるイエス・キリストです。三位一体の御子ながら、地上に降り、肉体に宿って人となり、人間が味わうすべてと言ってもよいほどの喜怒哀楽を味わい、サタン(悪魔)の誘惑に打ち勝ち、罪を犯しませんでした。それにも関わらず、無実の罪で「罪」とされ、肉体的虐待、精神的虐待をされた上に、十字架に架かり死にました。しかし、葬られた後、三日目に復活しました。

そのような究極の人生は、他の誰も真似はできません。その理由は、義人であるイエス・キリストが「罪」とされることによって、すべての罪人の身代わりになることが、目的だったからです。それを信じる人をクリスチャン(信仰者)と表現します。でも、その有り難みの感じ方は、千差万別です。

十字架の結果、信仰者に与えられるのは、「義の衣」と表現されます。

これは、あらゆる怒りから、信仰者を守ってくれます。

これを受け取るのは、無代価です。それは、王様でも、大富豪でも、自由人でも、奴隷でも、人間ならだれでも、感謝して受け取れる、創造主である神【主】からのプレゼントです。

これがあれば、この地上でも「永遠の幸福マインド」で生きることができます。つまり、死の恐れから解放されて、ご機嫌に生きることができるのです。

これにより、誰との比較をしなくても、大丈夫な自分を確立できるのです。

地上の喜怒哀楽は、ついて回ります。日々の家事からも解放されるわけではありませんが、一番、大きな重荷を下ろすことができるのです。

身軽になると、「隣人を蔑む」ことなく、自分と向き合い、必要な援助に勤しむことができるのではないでしょうか?