『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。(1コリント15:3-14新改訳2017)』
パウロが、コリントの教会へ送った書簡の中にでてくる重要な箇所です。
『キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた…』と福音の三要素が記されています。
「よみがえられた」というのは、「復活」ということです。
『そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。』とパウロ自らが記しているように、かつてはサウロとしてユダヤ教のエリート中のエリート街道を生きていました。そして、信仰者へ迫害を企て実行していたのです。
サウロは、ダマスコ途上で、復活の主の光に撃たれて、目が見えなくなったのです。
その後に、「目からウロコがおちて」主の恵みによって開眼し、サウロへと復活を遂げたのです。
この箇所で、「キリストが復活したのだから、信仰者の復活があるのだ」と厚く語っているのです。
他の宗教にない要素、それが、「復活」なのですね。
肉体的生命には限りがあるのですが、やがて、栄光の身体へと復活させられるのですね。