永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

動画 騎乗ネコ 居心地良さそう


Kitty Goes for a Relaxing Ride on Mini Horse || ViralHog

大きな背中、心地よい肌触り、ちょうど良い揺らぎなどリラックスのすべてがそろっているようですね。

そこは、ポニーというお馬さんの背中・・。

お客様は、ネコちゃん…。

その間に誰も入り込めないような一体感というか、人馬一体ならぬ、ネコ馬一体ですね。

どうやら、昨日今日の関係じゃなさそうデスにゃ。

人間なら、相当な平衡感覚が求められそうですが、ネコちゃんならお手のものですね。

ネコちゃんには、重力をものともしない動きができるときがありますからね。

野心家の幸福 アラン

『野心家の主たる幸福は、忙しいということなのである。 アラン』

「野心家」のイメージは、パワフルで貪欲な感じでしょうか?

でも、「健全な野心」もあるようなので、貪欲というのは、わたしのイメージなのかも知れませんね。

ともかく、野心家のイメージは、一心不乱に、自分のターゲットへ猪突猛進というイメージもありますね。

そうであれば、「忙しい」という環境が登場してきても当然のように感じます。

「魚釣りをする人は、せっかちな人が大成する」と聞きますが、「忙しい」という「せわしなさ」こそ、その人にとっては、幸福を味わえる状況なのかも知れませんね。

周囲の人にとっては、共有できるターゲットならば「忙しい」を共有することもできますが、そうでなければ、色々な葛藤に悩まされそうですね。

理想型は「健全な野心」で、忙殺されずに、ターゲットに少しずつ近づいていきたいものです。

飛行機のシートには、顧客の人生が現れる一面もあるようです。

エコノミーシートは、一般的な大衆、与えられた環境で精一杯生きる人。

ビジネスクラスは、自分がある程度の地位で、がんばっている人。

ファーストクラスは、ある程度の地位の人に任せて自分の時間を作り、自分の役割に集中できる人。

人生の選択肢は、色々あるものですね。

仕事の出来具合 完成 合格 上出来 出来過ぎ

自宅の改修工事は、「DIY」が増えてきても、ここぞと言うときには、プロの職人に依頼する人が多いのではないでしょうか?

注文に対して、形になったら完成で納品され、請求が来て、支払いをします。

でも、工事の満足度はどのように評価していますか?

私の場合、「完成」「合格」「上出来」「出来過ぎ」と基準を設けています。

職人さんにとっては迷惑なだけですが、あくまでも一顧客の感覚ですので、ご容赦のほどを。

とにかく注文した形や機能を有しているものを「完成」とし、職人の心配りを感じたら「合格」です。

また、「上出来」とは、心配り以上の工夫と配慮が感じられた評価です。

「出来過ぎ」とは、注文のイメージを遙かに超えた仕事に対して、賞賛の意味合いを込めて評価をしています。

人間の能力には、個人差が非常大きくあり、心配りには、大げさに言えば天と地との差が感じられるくらいの開きがあるようにも考えています。

ですから、注文するときに、図面などの客観的なものさしがあっても、それに対する思い入れや、使う人への配慮をどのようにするのかによって、できあがりに大きな差ができてしまうのでしょうね。

自分が何かを依頼されたときには、「合格」から「上出来」を最低限目指したいですね。

心を配る存在 箴言5:21

『人の道は【主】の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。(箴言5:21新改訳2017)』

「ヘリコプターペアレント」という言葉にドキッとする人もいるでしょうね。

自分の子どもが可愛すぎるあまり、求められていないのに、ヘリコプターのように、子どもを監視して、口を出したり、また、学校や職場にも、クレームを入れるのだそうです。

過保護過干渉という表現を遙かに超えた話ですね。


それはさておき、「理想の親」とは、どうでしょうか?

子どもの意志を尊重しながら、子どもの成長ペースに寄り添って、必要な手助けをしてくれるというイメージでしょうか?

今の時代は、「子どもの宿題は親の宿題」らしく、夏休み明けには、立派すぎる作品が提出される時代ですね。親の気持ちは満たされるかも知れませんが、子どものためになっていない残念な一面もありますね。


突き詰めて言えば、子どもの成長を願うならば、親としての「もどかしい気持ち」をグッと我慢して、子どもが課題に集中できる環境を整えることこそ大切な要素ですよね。

子どもとして本当に大切なコトは、モテる限りの自力で、課題に挑むという事です。


創造主である神は、人間にとっては究極的な親であり、子どもである人間の道筋に「心を配る」というのです。

目に見えなくても、そっと寄り添い、不安を感じる心配では無くて、配慮というニュアンスの心を配っていてくださるのですね。

生き物の定め 中島敦

『理由も分からずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。 中島敦

生きものの現実的理解が必要みたいですね。

つまり、「生きているのですが、生かされている存在」であるということです。

主体性の話はいったん棚に上げておきます。このテーマは、まず「存在に関わること」ですからね。

家庭環境にしても、生育環境にしても、自分では積極的に選べない要素を考えると、「押し付けられたものを大人しく受け取って」というフレーズが分かる気がします。

乳児幼児が、理不尽な扱いを受けて、いのちの危機にさらされるという報道を耳にする度に、心が痛む思いです。その子達にとっては選択肢が無いからですね。

でも、ある程度、成長してきた人にとっても、命の取り扱われ方が、理不尽に感じることはあります。

それを、自分で何とかできる範囲で、自分なりにどのように改善していくかに目を向ける必要がありますね。

極論を言えば、「人生の大部分は理解不能な不思議なコト」なのかも知れませんね。

自分の人生の意味を考えて、理解を深めていくという方向の選択肢もありますが、私の選択は、それを半分にしながら、与えられたことを「あれがあったから今があるのだな」と感謝するというマインドを持つようにしています。

「どうして?こんなことに」を考えすぎてしまうと、「自分にとっての解」が得られないことで、自分自身を破壊しかねないと考えているからです。

周囲から見ると理不尽だらけの一人の人生でも、当事者は、穏やかに、淡々と、幸せに生きていることもあります。

ですから、人生は考え方であらゆる方向へ道があるのでしょうね。

あくまでも「教える」が大切、「叱る」「しつけ」は親の都合

「人の物を盗んではいけないなんて、誰も教えてくれなかった。」という大人が存在するようです。

これを聞くと「えっ?」と感じて違和感を持つ人が多いのではないでしょうか?
でも、推測してみると、養育の過程で、伝達されなかった大切なコトがあったと思わざるを得ません。

「しても良いこと」「してしまったら悪いこと」の区別を知りながら成人に向かって成長をしていくのですが、周囲の人との繋がりが希薄になった今の時代には、それさえも、教えてもらえなくなる可能性があるように思います。

今の時代は、自分の身内であっても、接点が希薄になっていますから、養育者の努力が最重要ですね。

近所でも、学校などの身近な社会での人間関係を通じて、喧嘩をしたり、様々なコミュニケーションの中で、良好なコミュニケーションを持つための要素を体得していった時代がありました。

その中で、絶対的な正解がありませんから、常に試行錯誤で、相手によっても、環境によっても方法を変えながら、常に手探りですね。

そのためにも、養育者は感情的にならずに、根気よく「教える」または「伝える」ことが大切なようです。

感情的に「叱る」が通用しなくなると「怒る」だけになってしまい、子どもにとって自尊心が傷つくネガティブイメージだけが残ってしまいますから、結果的には良ろしくないようですね。

また、子どもに「親の「枠」にはめ込もうとしていると感じ取られる」と逆効果ですね。

親子であっても、別人格ですから、それぞれが精神的に自立した形でも関係性の構築が、最大の課題だと感じています。

参考書籍『オンリーワンの花を咲かせる子育て 松永正訓著』

モーセはファラオ(パロ)に挑む 出エジプト5:1-2

『その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」ファラオは答えた。「【主】とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は【主】を知らない。イスラエルは去らせない。」(出エジプト5:1-2新改訳2017)』

いよいよ「創造主である神」と「地上の権力者でエジプトの神々の上に君臨するファラオ」との対決です。

モーセとアロンは、ファラオの前に出て、「イスラエルの民を解放せよ」との創造主である神からのメッセージを伝えました。

それに対して、ファラオは「【主】とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は【主】を知らない。イスラエルは去らせない。」と、応答しました。

かつて、ヨセフがエジプトのナンバーツーをしていた時代のことは、忘却の彼方という感じですね。

歴史によると、ヨセフの時代のエジプト王朝はセム系だったとされていて、イスラエルと同系統なために、イスラエルに対しては、友好的だったと言われています。クーデターがあったのか、モーセの時代には権力が変化していたのですね。

その後、エジプトの地で増え広がったイスラエル12部族が相当な数になっていたので、エジプトにとっては、奴隷にして搾取し、体力も経済力も削ぐ方が、体制の維持には良いと考えていたのかも知れませんね。

この対決の構図は、「創造主である神は奴隷状態にあるイスラエルの神」で、「ファラオはエジプトの神々の頂点に君臨」していました。創造主である神の目的は、礼拝する民をつくるためでした。最低限に要求を『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』としたのですが、ファラオは創造主である神を知らないと軽蔑をしたのです。

いつの時代も光と闇がぶつかり合い、見ている人をガッカリさせる光景が広がっています。どうして、その様に感じるのかですが、自分の想定の速さよりも格段に遅くことが運んだりするからです。

創造主である神がついているとは言え、ファラオはかなりの難敵のようですね。