永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ネットで中傷記事を書く人の傾向

 

インターネットの世界で巻き起こっている日常風景の一つは、中傷誹謗による、いわゆる炎上です。

物理的な火事であれば、消防車を呼べば、被害を最小限にするべく消火活動をしてもらうことが期待できます。しかし、インターネットでは、様々な対策が「火に油を注ぐ」ことになってしまうようです。

実際に、当事者になったスマイリーキクチさんによると、そのような人達の傾向に共通点を見出したと言っています。

それは、「自分かわいそう」的な思考なのだそうです。

真偽のほどを確かめなくて、誹謗中傷を繰り返したとしても、自分はかわいそうなのだからいい(許される)という考え方のようです。

もう一つ、構造的に想像されるのが、それらの人に対して、煽る役割をするメディアであったり、いわゆるデマニュースを流布する人達がいることです。

心理的には、放火魔的な要素もあるように感じます。

「他人の不幸は蜜の味」などとも言いますが、他人を自分がいる「不幸」という領域にひきづり降ろしたいという破壊的な要素を感じると実に恐ろしくなります。

自分よりも、もっと不幸な人をつくりだして、自分はその上だからという安心を得ようとしているのかも知れませんが、結果、不幸が増え、自分も惨めになっているというループに陥っているだけなのですね。

私が、そのような立ち位置にいないか、冷静に確かめる視点を持ちたいと考えています。

肉体を生かす心

『穏やかな心は肉体を生かし 激情は骨を腐らせる。(箴言14:30新共同訳)』

肉体に宿って生かされている人間は様々な影響を受けています。

それは、心に対するアプローチです。

人には、色々な思いがあり、それらが、心を通じて、肉体に影響を与えているというのですね。

「穏やかでいられるか」というのが、生き生きと生きるための大きな要素のようです。

しかし、常にプレッシャーを受け続けている人間は、それらの影響で、「興奮」「激情」「ねたみ」を増幅させ、それが骨を蝕み、腐らせてしまうと警告しています。

人間は、理想と現実のギャップに、様々な感情を抱きますが、できるだけ穏やかにいられるか? が、健康の秘訣なのでしょうね。

風にそよぐ柳の枝のようにしなやかにいきたいですね。

森は今日も生きている

 

森を定点観測で撮影した動画です。

もちろん、風の影響を受けたりするでしょうけれど、まるで樹たちが、ダンスでもしているようにも見えます。

様々な気象条件や気候にさらされながらも、大地に根をはり、上に枝を伸ばし、葉に太陽を受けて、のびのびと生きて使命を果たしているのですね。

植物は、根をはる性質上、自身では移動できないですが、鳥や虫たちが代わりに、花粉やタネなどを運んでくれます。

これには、創造主である神の素晴らしいデザインを認めざるを得ない要素ですね。

人間にも、植物タイプの人がいます。周りの人に、甘えてお願いするタイプの人です。上手な甘え方ができる人でもあるのかも知れません。

そのタイプではない人からは、様々な感情を抱かれているでしょうけれど、そのように振る舞えるタイプではない人から見れば、うらやましい一面でもありますね。

牛の存在価値

『牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが 豊作をもたらすのは牛の力。(箴言14:4新共同訳)』

肥沃な三角地帯では、農耕に大活躍したのが牛でした。

今のような、農業機械がなかった時代ですから、人海戦術や家畜のチカラを借りる知恵が大切だったのですね。

確かに牛がいなければエサも入りませんから飼い葉桶もキレイなままです。

しかし、牛一頭のチカラは、人間の耕す能力に比較すると大きな開きがあることは明らかです。

牛によって、より大きな範囲を耕すことができ、大きな収穫を得ることができたのですね。

牛を神と崇拝する地域もありますから、牛の力は人間にそのようにさせてしまうほど多様なのかも知れませんね。

ネコならば、「ネズミを捕まえるのが良いネコ」というフレーズもありますからね。

それぞれに、存在価値があるのですね。

幸福を維持するチカラ

『幸福を維持するために、どれだけ努力が払われているか?…ル・グウィン

幸福ほどどれだけお金を積んでも手に入りにくいモノはないと、私は考えます。

そして、何が幸福なのかも、多様性に満ちていて、解を表現するのが難しいですね。

「幸福感」をどのように感じているか? がポイントですね。

家庭の中で、肩身の狭いご主人がいたとしても、その実は、幸福感に満ちているかも知れません。

豪邸の中で、財産を失うかも知れない不安や孤独感に苛まれている人もいるでしょう。

「どこにいても、雨露がしのげて、生きるために食べていける」というような最低限でも、充足感に満ちている状態ならば、「幸福感」の実感が高いのでしょうね。

ただ、その「幸福感」に、誰がどれだけ貢献しているかも再評価する必要があると考えます。

標準世帯ならば、稼ぎ手が朝早くから夜遅くまで労働したり、家事を担当する人が様々な配慮で、内助の功を発揮したり、それぞれが、それぞれの役割を果たすことで、成り立つのでしょうね。

人間の感覚の中には、「自分だけ不幸」と考えたくなる要素もありますが、現実的には、ほんの一部の要素を過大解釈することから起きる現象なのですね。

自分の幸福感のために、そして、大切な人の幸福感のために生きているという実感をもって生きていきたいと考えています。

自己という牢獄

どこかで『自己という牢獄』というフレーズを連想させるシチュエーションに出会ったように感じて、慌ててメモをとったのですが、どこのどの情景なのか思い出せません。

でも、自分という存在は、ゆるやかな自他境界線があり、そこには自己防衛のための鎧(よろい)が存在します。

自己防衛のあたりに通気性が著しく悪くなることがあれば、カビが発生したり、湿りっけに因る疼きが出たりしますね。

「自分の殻(から)に閉じこもる」というフレーズもありますが、そのような状態になると、牢獄化してしまう懸念もありますよね。

どのように通気を確保していくのか、どのように自己防衛をするのかを検討する必要性があるのではないでしょうか?

「自己を守る」と言うことと「自己を閉じ込める」という似ている現象を前にして、どのような選択肢があるのでしょうね。

ナポレオンとベートーベンの不思議な関係

同時代に生きていた偉人にカテゴライズされるナポレオンとベートーベン、互いに尊敬していたそうです。

ベートーベンは、第一番から第九番までの交響曲を作曲していますが、その中でも、第三番の「英雄」が「私の会心の作」だと言っていたのだとか。

そもそも、この「英雄」は、原譜に「ナポレオンに捧げる」と書いて消してあるそうです。

また、ウイーンに保存された表題は「ある英雄の思い出のために」と記されている。

ナポレオンは、ベートーベンにそこまで書かせるほどの存在だったのでしょうね。

盛者必衰も世の中で、ナポレオンもやがて敗者となるのですが、活躍めざましい時に、作曲されてのが「英雄」だったということですね。

余談ですが、日本の民放は、「ナポレオン法典」を参考にしているのだそうです。昔の法律も良く出来ていたのですね。

参考文献 『武藤山治とナポレオン(武藤治太 著)』