永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

より良い援助とは?

人生の中には、「助けて欲しい」と思うこともあります。そのような時に、適切な助けを得られたなら、心からうれしさがこみ上げてくるのではないでしょうか。

「あの人大変そうだから助けてあげたいなあ」と感じても、相手が本当に援助を求め、また、自分がしようとしている援助が適切でなければ、功を奏しません。

助けるということは、非常に難しいテーマのように感じています。

究極的には、結果が本当の意味で相手を助けることになったのかどうか?

また、相手のためになるという前提はありますが、マインドとしては、自発的に私が助けたいのだから自分のために骨身を惜しまずに助けるという視点も大切なように感じています。

言い方を変えれば、「自分のために」とか「自分のこととして」取り組むというイメージですね。

このように取り組むようにしてから、「助けてやった(のに)」というネガティブな後味の悪さからは解放されたように感じます。

相手が本当に必要としていると感じた時には、さりげなく、しなやかに手をさしのべたいと考えています。

希望という道しるべ ヘレン・ケラー

『希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければなにごとも成就するものではない。ヘレンケラー(奇跡の人 ヘレンケラー自伝)』

根拠の無い自信は、希望から来るのかも知れないと感じます。

また、希望から心を離れさせるものは「失望」であり「絶望」です。

人間は、人生の中でガッカリするような時が必ずあります。でも、そこで「希望」を握りしめれば、成功へのチャレンジができます。「希望」を手放すと「失望」し、「絶望」の淵へと追いやられた心境になって落ち込むのです。

人間の表情は正直な心の鏡ですから、嬉しい時にはニコニコできますが、ガッカリした時には、ほほが下がり表情に表れます。

ここが、正念場で、自分でしっかりと「希望」を確認し、鏡を見て口角をあげニコニコを意識して、前を向いて歩くと景色も変わってくることでしょう。

三木清は次のようなことばを残しています。

『希望に生きる者はつねに若い。 三木清(人生論ノート)』

 

人間は愛された存在

『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10新共同訳)』

愛された実感が無いという人にとっては「愛」はピンとこないでしょうね。ましてや、「究極的な愛」のお話となればなおさらですね。

「命をかけて愛する」という気持ちでいても、そのようにできないこともありますね。

人間は、創造主である神に似せて被造された存在です。ですから、いのちの源である神は「究極的な愛」を発揮する対象としては、むしろ当たり前なのですね。我が子を愛する人間のように、それにも優って愛を注ぎたい対象なのです。

人間には、いのちの源である神の存在を意識していない状態では、理解できない話ですね。

神は私たち、一人一人を愛してくださっています。

そればかりでは無く、人間が壊してしまった永遠の幸福への橋を、御子イエスキリストを犠牲にすることによって、「愛の架け橋」を備えてくださったのです。

これこそが「究極的な愛」なのです。

この愛を知り、それを命懸けで伝えたパウロは、まさに命を差し出して、その生涯を閉じることになりました。

その他の弟子たちも、同じような最期を遂げました。

信仰者の中にも、平穏に肉体的死を迎える人もいますが、そうではない人もいます。

どのような最期であっても、信仰者の未来は、「究極的な愛に包まれた永遠の幸福」なのですね。これに包まれて、永遠の世界に解放されていくのです。

ギターの形をした庭 妻の夢

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ペドロ・ウレタさんは妻と「ギターの形をした森を作りたい」と話をしていたそうです。

でも、25才という若さで亡くなってしまいました。

残された娘とペドロさんは、コツコツと木を植え続け、衛星写真でもわかるほどに「ギターの森」が完成しました。

アルゼンチンのコルドバ州南部の農場で、ペドロさんは飛行機が苦手で、全景を見たことは無いとのことですが、それにしたら、この形をどうやって作っていったのか?不思議ですね。

広大な農地を管理するのも大変だと思いますが、そこだからこそ可能なのかも知れません。

安楽死を望む人

アメリカで安楽死をしたがるタイプは「白人」で「裕福」「心配性」「高学歴」(安楽死尊厳死を語る前にp51 安藤泰至著)』

自分がどのような最期を迎えるのか、今ではイメージすらできません。

そもそも、人間はいのちを与えられて生きて、やがて、死ぬことはどうにもコントロールできないという現実があります。

ここ数十年、終末期の緩和ケアやホスピスと言った分野が飛躍的にサービスを拡大しています。痛みや不快感を軽減してくれるという有り難さは、当人にとっては、何ものにも代えがたい対応のようです。

しかし、「安楽死」となると、命をとる殺人と見なされる行為ですから、スイスが先進的ですが、アメリカでは5つの州、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダ、ルクセンブルグ、オーストラリアビクトリア州大韓民国などで、まだ少数です。

その是非はともかく、ニーズはあるのですね。

特に、末期のがんの場合、想像できないほどの激痛が絶え間なくあるのですから、緩和ケアで軽減しても、精神的な辛さは想像を絶するモノがあります。

「耐えられない試練はない」といわれますが、この類いの痛み苦しみは耐えられそうにありません。「これと共に逃れる道を備える」ともありますので、安楽死以外の道で、天からの導きがあるように祈らずにはおれません。

強力な性格 ニーチェ

『善にも強ければ、悪にも強いというのがいちばん強力な性格である。(ニーチェ「人間的な、あまりにも人間的な」)』

正義感が強い人や逸脱することに苛立ちや恐怖感を感じる人が結構いますね。

そこまで、影響がなくても、多くの人は積極的に正義感を発揮する局面があるのではないでしょうか?それが、人間関係を変えていくきっかけにもなることがありますね。

世の中の矛盾などを見聞きしていると、自分のことではなくてもフラストレーションがたまってきて、ストレスを抱えることにもなります。

そのようなニーズに調整弁として有効なのが「水戸黄門」をはじめとする「勧善懲悪」をテーマとするドラマなどです。基本構成は同じで、悪事を企む人達を水戸黄門の一行がやっつけるという痛快なハッピーエンドになっているのですね。時代劇だけではなくて、映画や現代劇などでもあるようですね。

これを夕方見ることで、一日の鬱積した理不尽さが、軽減されるのですね。

正義の味方のニーズは「弱くを助け強きをくじく」というバランスの取れた中立性が求められます。

ニーチェのことばからは「善を曲げずに行う強さ」や「悪を行わない強さ、徹底的に悪に対抗する強さ」という要素を感じます。

人間には、得手不得手がありますから、強みも弱みもあるのが当たり前です。性格も持って生まれたモノが大きく影響し、余程の事がない限りは変わらないものなのかも知れませんね。

性格を変えるということができる可能性は、自分の弱さを知りクセをどうするか?というあたりにありそうです。つまり、習慣を意識化して、どのように改善するかという取り組みですね。

「アガペーの愛」とは?

『たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13章)』

使徒パウロによって記された「愛の章」と言われる箇所です。

「究極的な愛」を「神の愛(アガペー)」として記しています。これには、「すべてを堪え忍び、柔和で恵みに溢れている」という要素と「真理を曲げることを許さない厳しい」要素があります。それこそ、創造主である神の本質である「恵みと真理」の二つの要素なのですね。

真理に基づけば、杓子定規で「裁く怖い存在」というイメージを持ったりしますね。でも実際は、期限を設けられていて、「許す期間」が設定されているのですね。

また、放蕩息子の父のように、息子の申し出を受け止めて、それを引き留めようとも、懇願したり、言いくるめようともしませんでした。つまり、息子の自由意志を尊重したのです。そして、放蕩のすえに帰還した息子を暖かく許し迎え入れたのです。このストーリーからは、「アガペーの愛」が浮かんでくるように感じます。

「愛」ということばは、時には甘く、時には寛容にと使われますが、その本質は、よく理解できない要素があるようにも感じています。また、世の中には、「歪んだ愛」が多くあるのも人生の中で味わって行きます。

人が「愛」を心に感じる時にこそ癒やされるのではないでしょうか。