永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

誰も損をしない「利益(りやく)」という考え方 メモ

「この取引が成立すると、経費を差し引きして、いくら利益が出る。」などの計算に慣れている方も多いことでしょうね。

最近では、「Win-Winの関係」と言われることが多くなってきました。

そもそも、取引は利益を生まないと次に繋がりませんから、差し引きマイナスになることは避けたいモノです。

しかし、このことばの語源は「利益」と書いて「りやく」と読むのだそうです。そして、その意味は「誰も損しない素晴らしいもの」なのだそうです。

「与えること」と「受け取ること」どちらが難しいですか?

「これあげる」というのは、小さな子どもでも言いそうです。小さなあめ玉を差し出されて「有難う」と素直に受け取れる人がどれくらいいるでしょうね?

また、「差し上げたい」あるいは「貢献したい」と思っていても、それを「受け取ってくれる」人がいるかどうかも課題ですね。

モノの値段には大きな開きがあります。それは、製造方法や原材料、そして、作る人の技術料などに開きがあるからですね。

ここ数十年、人件費が安い地域で、原材料をできるだけ押さえて、ソコソコのものを大量に作り、利益を確保し、投資家に多く還元するという傾向が窺えます。

ビジネスに効率を求めることは大切ではありますが、あらゆるビジネスが共存できないまでに一極化が進むなどの歪みが生じているのも現実ですね。

振り子のように、振り切ったら逆に進むものなのか?それとも、デジタル化された世の中には、そのような作用は働かないのか?今から、ジックリ肌身で感じていきたいと考えています。

不満足な人間を生きる

『満足した豚であるよりも不満足な人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい。(J・S・ミル【世界の名著49 ベンサム・J・Sミル】)』

『足るを知る』のが成熟した大人だと言われます。

確かに、闇雲にあれも欲しいこれも欲しいと、物欲に振り回される人生はヘトヘトに疲弊しそうですね。

豚と人間とソクラテスの対比が非常にユニークに感じます。

このフレーズから感じる私のイメージです。

不満足は、まだ発展の余地があるという意味のように感じます。

豚の満足は満腹で、人間は満腹だけでなく、他の発展性(思考など)にも目を向けている点が浮かび上がっているように感じます。

不満足というワードは、必ずしもポジティブに響きませんが、満足はしていないという状態を的確に表現しているようですね。

私なりに解釈すると、現状に満足するだけではなく、現状を踏まえて発展の余地を探り続けるというイメージです。

「愚か者」という表現も辛辣ですが、ソクラテスのように常に発展性を求めたという姿勢と比較すると、可能性があるのにその権利を行使しないという事に関して「愚か」という評価なのかも知れませんね。

「不満足」な人間は、可能性に満ちていると言うことになりますね。

喜び・祈り・感謝

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:16-18新改訳2017)』

「あなたはいわゆる美形なタイプではないので、いつもニコニコしていなさい。」と、育てられた方もいることでしょうね。美形かどうかは、脇に置いておいて、ニコニコしていると、愛想が良い好印象ととらえる人が多い傾向があるのでしょうね。

そして、これは、マインドにも大きな影響がありますね。

人生には、喜怒哀楽が付き物ですから、当然、悔しい気持ちや、やるせない気持ちから涙を流したくなる時もあります。感情はため込むよりも出してしまった方が良いですからだしてスッキリした方が良いですね。

しかし、余りひきづり過ぎるのはもったいないです。

気持ちを吐き出したら、ニコニコモードに切り替えた方が自分も周囲も明るくなれますね。

『いつも喜んでいなさい。』から伝わってくることもそのように感じます。

『すべてのことにおいて感謝しなさい。』からは、非常に高いハードルを感じてしまう部分もありますが、例え試練の中にいたとしても、その試練から宝物が得られると考えれば感謝ができるようになるのではないでしょうか。

『絶えず祈りなさい。』からは、創造主である神の御心が何を求めているのかを知るために、祈りをもって聴く姿勢にいると考えています。

祈りの姿勢でいると、目の前に広がる多くの選択肢が、絞り込まれていって、他に進むのが困難になるということもあるのですね。

最終的には、自分で決めるのですが、余分なモノを削ぎ落とすためにも、祈りの姿勢は大切なモノだと考えています。

治療中なのでちょっと待ってなサイ

youtu.be

サイの赤ちゃんと言っても100kgを超えているようです。

まだ、シンボルの角がなく、獣医か飼育員も手で静止しています。

どうやら、母サイの足の治療をしているようですね。

母サイに何かされては大変だと感じたのか? 「やめろー触るなーお母さんに何するんだー」と何度も突進する姿はいじらしいですね。

でも、母サイも「今治療中だから、ちょっと待ってなサイ!!」と言っているのではないでしょうか?

サイの角は、漢方薬として珍重されていて、密漁が絶えず、保護をしなければいけないとの現状があるようです。

人間が、悪いことをして「ごめんなサイm(_ _)m」と謝らなければなりませんね。

自分という器に収める 取捨選択難しい

不用品が出たら、自分の罪悪感を少しでも軽くしようとして、欲しいという人に差し上げようとしてしまいます。迷惑な話ですよね。

また、自分という器の容量を越えて、あれもこれも欲しいと振る舞っている自分もいます。

人間は、生きている限り、欲の塊なのかと自分自身を見ていて、あきれる時もありますが、同時に、それが、生きることなのかも知れないとも考えています。

1回取り込んでしまうと、手放すのが厄介になるし、手放さないうちにまた取り込んでしまうなどと、このような繰り返しをしています。

そろそろスペースも手狭になってきたから、処分しようと考えて方針を決めても、「ちょっと待てよ」なんてこともありますね。

このような悩みは、モノが溢れた今の時代には多いのでしょうね。

パソコンの中など最たるモノで、不要であろうデーターがゴロゴロスペースを占有している。大容量の記憶装置で、「容量がありません」とは、出てこないから放置している部分もあります。

自分という器を考えて、「よりシンプル」を目指していきたいと考えています。

人が積極的になるのは 感情や快楽、欲を満たせる時

家族旅行に行く前の子どものワクワクする心境でしょうか?

目の前に、「にんじん」とか「あめだま」とかをぶら下げられると、積極的になる人が多いのだと思います。

また、自分が欲しいと思っているモノであったりコトであったりすると、いつもよりも積極的になりますよね。

依存症の項で書きましたが、目の前に「快感」がぶら下がっていると、一度、それを味わって知っていれば、なおさら、抗うのが困難になるようです。

積極的なのは、悪いことではありませんので、自分がどのスイッチを押すと積極的になるのかを知っているとしたら、大きな強みになりますね。

ただし、時には、消極的なことが身を救うこともありますから、冷静な判断ができるポジション取りを、まず心がけようと考えています。

ゆるがない霊

『神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。(詩51:10新改訳2017)』
『神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。(詩51:10新共同訳)』

「永遠の幸福マインド」とか「どんなときも大丈夫!」などと聞くと、素直に共感してくれる人と、そんなことを言っているこの人は本当に大丈夫なのだろうか?と懐疑的に見る人、無関心な人などに大別されます。

人間には、アダム以来受け継いだ「罪」のDNAのありますが、良いことを選択しようとする「良心」も備えられています。これが機能すると「良心の呵責」の作用を感じるコトができるのですね。つまり、自分が得ている利益が、他者の犠牲の上に成立していると知ると「心が痛む」というような感覚ですね。

また、人間は肉体的生命に宿っている間には、「罪」は外科手術できないものですから、付き合っていく以外には選択肢がないようです。

詩篇の作者も「きよい心」を求めたい気持ちがあったのですね。自分の心に向き合う人には、感じやすいことなのかも知れませんね。

そして、もう一つの願いは「揺るがない霊」と記されています。別の翻訳では「新しく確かな霊」となっています。これは、時代を超えて、つねに揺らぎ続ける人間が共通する願望なのでしょうか?

イエス・キリストの十字架以降の信仰者は、信じる瞬間から、心に「聖霊の宮」が造られます。時代を超えた願いが実現したのですね。

その領域は、ゴムまりのように、その人の心域で、「生まれながらの心領域」とシェアされるのです。つまり、「聖霊の宮」が大きくなると「生まれながらの心領域」がせまくなり、逆転もするのですね。

「揺るがない霊」とは、この「聖霊の宮」のことなのですね。