永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

塞翁が馬について 中国の故事成語

『◇塞翁が馬(さいおうがうま)(中国の故事成語)

中国前漢の『淮南子(えなんじ)』より。人間の運命は予測ができず、福が災いとなり、災いが福となるということもあるということ。また、それゆえに悲観的になりすぎたり、楽観的になりすぎたりすることを戒める意味合いも含んでいる。塞翁は飼い馬が逃げたとき、「何かよいことがある」と考えると、その馬がもう一頭の馬を連れて帰った。今度は「悪いことが起こる」と考えると、息子が落馬し怪我をした。するとまた「良いことが起こる」と考えると、今度は戦争が起こり、息子は怪我のために出兵を免れたという。』

人生には、良いことも、悪いこともあるという考え方を持つ人は、ある程度いると考えています。

その比率については、様々な意見があるようです。

そもそも、人生には良いことしかないと考えるのも、悪いことしか無いと考えるのも偏りがあるように感じて居ます。

しかし、人生には、その人にとって必要なコトしか起きないという考え方がシックリくるように私は考えています。

そのように考えると、いちいち、良いこと、悪いことの選別をしなくてもよいからです。

ただ、その中に、理不尽なコトがあるのも事実です。それで、命を落とす人もいるのですから、その範囲は、私には理解が及ばないことです。

冒頭のフレーズも、よく耳にします。

「何かよいことがある」とイメージするか? 「悪いことが起こる」とイメージするか? それによって、起きることが変わるという考え方のようです。

その背景は、「悲観的になりすぎたり、楽観的になりすぎたりすることを戒める」というニュアンスと言うことなので、それを含んで考える必要がありそうです。

人生は、悲喜こもごも、喜怒哀楽があります。

自分自身が努力や選別ができる要素もあります。

しかし、運次第という要素も付き物です。

自分自身で何ともできない要素に対して、感情的に振る舞っても、それらを動かせるものではありません。

私の理解では、起きたコトへの合理的な理解と考えた方がシックリきます。

自分自身にとっての理不尽が降りかかってきたときに、それをチャンスと捉えるのか、ピンチと捉えるのかを、その時の自分に問いたいと考えています。

・禍福は糾える縄の如し
・沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり
・一の裏は六
・楽あれば苦あり(苦あれば楽あり)

なども類似のフレーズとして使われていますね。