永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

「まだ、、、」という計り知れないプレッシャー

「まだ?」と言われるのが結構プレッシャーになりますね。

筆者も、以前はかなり先延ばしタイプだったので、罪悪感を強く感じていました。

優先順位を考えられるようになってから、「まだ?」と言われることも減ってきてはいますが、たまに聞く「まだ?」には、ドキッとすることもあります。

しかし、自分自身に対してはどうでしょう?

Todoリストを書いてみては、遅々として進まないなんてこともありますね。

そんな時には、もう一人の自分が「まだ?」と問いかけることもあります。

すると、「まだ?」「どうして?」というループが回りかけようとします。

そんな時には、リスケジュールや進まない要因をジックリ考えるコトにしています。

親子の間柄でも、「まだ?」なんてやり取り、この時期ですと、夏休みの宿題などですかね?

「まだ?」という言葉を発する側の気持ちと、言われる側の気持ちを考えてみたいですね。

平和をつくり出す人

『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9新改訳2017)』

平和とは、自責からも他責からも解放されることかも知れません。

別な言葉で言うと「誰からも咎められない」という表現のが分かりやすいでしょうか?

そもそも、平和な状態というのは、どのような時に訪れるのでしょうか?

経済的にも満たされていて、社会的にも安泰で、家庭も穏やかな時とイメージすると、かなり現実とのギャップが広がるようにも感じられます。なぜなら、人生の中で、順風満帆なときは、それほど長い期間ではない人が圧倒的に多いからです。

船に乗っていて、嵐に遭遇しても、大丈夫と思っていられるかどうか、個人差も大きい話だと思いますが、それが平気だったのは、ガリラヤ湖上でのイエスくらいかも知れません。

ほとんどの人間は、船が転覆や沈没したらどうしようとガタガタと震えるのです。無論、私も、ガタガタと震えます。でも、嵐の中でも大丈夫と平気で寝ていられる主イエス・キリストが共にいてくれるから大丈夫なのだと感じられる時に、穏やかな気持ちになれるのですね。

平和の源である存在との関係が大切なのですね。

キリストによる勝利の行列に

『神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。(2コリント2:14)』

凱旋門は、街のシンボルとして、観光の名所にもなっています。私は、戦勝の凱旋を生で見たことがありません。ここで出てくる「キリストの勝利の行進」というのが、凱旋パレードなのですね。

何に対する勝利かですが、

『そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタ 16:18新改訳2017)』

とあるように、「よみの門」つまり霊的死に対する勝利なのです。

イエス・キリストは、十字架に架かり死に、葬られ、三日目に復活しました。

それを自分のためであると信じるならば、永遠の死から、永遠の生命(幸福)に移されるのです。

その究極的な勝利を盛大にお祝いするためのパレードなのです。

そのパレードは、主イエス・キリストの復活から、ずっと続いているのですね。

参加者は、メシアである主イエス・キリストを信じる人達です。

再会した白鳥のカップル

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久しぶりに出会ったようですね。

頭を合わせて、首を動かしています。こんなスキンシップをするのですね。

ハシビロコウという鳥も頭をこすり合わせるのがあいさつだそうですが、雰囲気的に似ているようにも感じます。

白鳥の場合は、シルエットも流線型で、美しく見えるからなのか、優雅でエレガントな雰囲気を感じます。

人間の場合は、大切なパートナーとのオリジナルなあいさつを持てる間柄が、ステキなのかも知れないとイメージさせられる動画ですね。

依存症状から抜け出せない理由

私は、人間のほとんどの人が、程度の差はあれ、何かの依存症なのではないかと考えています。私も含めて…。

依存症が治るかどうかも難しいテーマだと思います。

薬物依存症は、違法でもあり、常習性から関係者は大変な苦労が付き物です。また、アルコール依存症ギャンブル依存症セックス依存症なども近親者が多くの苦労を背負う形になるケースが多く見受けられます。

ケースによっては、それらに併存してDV行為などもあり、なおさら、対応のハードルも上がります。

薬物依存症の場合、得られる快感が、他の何から得られる快感よりもスゴいのだそうです。ですから、この快感を超える何かを見つけられないと離れられないそうです。

そこまで、行かなくても、甘い物には誘惑を感じる人もいるのではないでしょうか?

スイーツがなくては生きていけないと言うのなら、ヤバいです。スイーツ依存症かもしれません。でも、砂糖やクリームなどは、美味しいし、一時的に血糖値が上がりますから、少し、気分を和らげれくれたりします。

あまり、スイーツを立て続けに食べるようになると、糖尿の心配もありますから、ほどほどにした方が、良いのかも知れませんよ。

時には、自分は何にハマりやすいのか?をジックリと観察してみるのも必要でしょうね。

寄り添うこと看ること

看護師に患者が期待すること、「医師に指示された医療行為を適切にして欲しい、不快感を聴き取りや看て対策をして欲しい、一緒にこれからのことを考えて欲しい。」などがあると思います。

特に、慢性的な末期の症状であれば、なおさら、どうしようもない現実に寄り添って欲しい。

人間は、病気の有る無しにかかわらず、限りがある命です。

具合が悪くなった時に、病名がつくケースもありますが、不明のこともあります。

極論をすれば、人間は、どうなるか分からない、解決策(正解)がない中で生かされているのではないでしょうか。

その中で、特効薬があれば、悩みも減るのでしょうけれど、そのほかの要因を取り去るほどの特効薬は、残念ながらないですね。

これを踏まえて、重要な要素を考えてみると、「患者の心の痛み」にどう対応するか?ということになるように思います。

身体の不快感をケアすることも大切なのですが、それよりも「心の痛み」を知り、それにどのように寄り添うかが最重要テーマなのですね。

私は、「どうしようもならないことの共有」と表現したりしますが、決して投げやりではなく、「今、最大限できること」にフォーカスしていくために、どのようにしていくのが、「QOL」を高めるのかをも考える余裕が大切なのですね。

創造主である神の本性

『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。(ロマ1:20新共同訳)』

「自然啓示」と言われる創造主である神の示され方ですね。

ダーウインの進化仮説や天体は偶然に発生した等とする説が流布されて久しいです。

一方、「サムシンググレート」の存在を認めざるを得ないという表現も一時期よりは増えてきた印象があります。

いづれにしても、今は、どちらを信じるかは、その人に委ねられているのですから、自分の信念に従って、信じればいいことですね。

冒頭の聖句には、明らかに、『目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。』と記されています。

これを感じた人達は、創造主である神を信じると表明したり、サムシンググレートを感じたりという風になるのですね。

でも、「私は信じたくない」という選択の自由はありますが、『彼らには弁解の余地がありません。』とも記されていますので、何かの覚悟が必要なのかも知れませんね。