『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10新共同訳)』
愛された実感が無いという人にとっては「愛」はピンとこないでしょうね。ましてや、「究極的な愛」のお話となればなおさらですね。
「命をかけて愛する」という気持ちでいても、そのようにできないこともありますね。
人間は、創造主である神に似せて被造された存在です。ですから、いのちの源である神は「究極的な愛」を発揮する対象としては、むしろ当たり前なのですね。我が子を愛する人間のように、それにも優って愛を注ぎたい対象なのです。
人間には、いのちの源である神の存在を意識していない状態では、理解できない話ですね。
神は私たち、一人一人を愛してくださっています。
そればかりでは無く、人間が壊してしまった永遠の幸福への橋を、御子イエスキリストを犠牲にすることによって、「愛の架け橋」を備えてくださったのです。
これこそが「究極的な愛」なのです。
この愛を知り、それを命懸けで伝えたパウロは、まさに命を差し出して、その生涯を閉じることになりました。
その他の弟子たちも、同じような最期を遂げました。
信仰者の中にも、平穏に肉体的死を迎える人もいますが、そうではない人もいます。
どのような最期であっても、信仰者の未来は、「究極的な愛に包まれた永遠の幸福」なのですね。これに包まれて、永遠の世界に解放されていくのです。