永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

「アガペーの愛」とは?

『たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13章)』

使徒パウロによって記された「愛の章」と言われる箇所です。

「究極的な愛」を「神の愛(アガペー)」として記しています。これには、「すべてを堪え忍び、柔和で恵みに溢れている」という要素と「真理を曲げることを許さない厳しい」要素があります。それこそ、創造主である神の本質である「恵みと真理」の二つの要素なのですね。

真理に基づけば、杓子定規で「裁く怖い存在」というイメージを持ったりしますね。でも実際は、期限を設けられていて、「許す期間」が設定されているのですね。

また、放蕩息子の父のように、息子の申し出を受け止めて、それを引き留めようとも、懇願したり、言いくるめようともしませんでした。つまり、息子の自由意志を尊重したのです。そして、放蕩のすえに帰還した息子を暖かく許し迎え入れたのです。このストーリーからは、「アガペーの愛」が浮かんでくるように感じます。

「愛」ということばは、時には甘く、時には寛容にと使われますが、その本質は、よく理解できない要素があるようにも感じています。また、世の中には、「歪んだ愛」が多くあるのも人生の中で味わって行きます。

人が「愛」を心に感じる時にこそ癒やされるのではないでしょうか。