永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

整理整頓は段階を踏むと良いらしい  心の整理

整理は、乱れた状態にあるものを整えること、不要なものを取り除くことを意味する。整理の「理」は、道理や理論などに使われる字で、「物事の筋道」という意味があり、筋道に沿うよう整えるのが「整理」である。
整頓も、整った状態にする、かたづけることを意味するが、整理のように不要なものを取り除くという意味はない。
整頓の「頓」も「整える」という意味で、とにかく整えること、正しい位置にきちんと置くのが「整頓」である。
無駄なものを捨てる「整理」をした後、正しい位置に置く「整頓」をするので「整理整頓」の淳となる

違いがわかる事典 より

 

 

捨ててから整えるという順序が理に適っているのですね。

この捨てるというステップが難しい人が多いのではないでしょうか?筆者もその一人です。

捨てることに罪悪感を持ったり、勿体ないと考えたりして、執着してしまうのです。

「その場所にある必要があるのか?」と問われれば、「その必要は無いように思う。」という返事になるのですが、「でも、捨てるのは・・・」となってしまうことが多いですね。

どうやら、そのモノとの距離感や、それに対する執着心は、心の課題のようですね。

少し、ジックリ時間をかけてでも、心の整理をしながら整理整頓を進めるのが良いようですね。

苦しんで生き生きと暮らす

『下らなく過ごしても一生、苦しんで過ごしても一生だ。苦しんで生き生きと暮らすべきだ。(志賀直哉全集第6巻(らくがき三つ))』

「下らない」という語源を調べて持つ印象は、「本質や本道を外れることは相手にする必要はない」というニュアンスを感じます。

書き出しのフレーズは、ノンベンダラリと、何も考えず、何の期待も持たずに一生を過ごしてもということなのでしょうね。

それに対して、苦しんでもは、人生の悲喜こもごもが思い出される人もいるのでしょうね。

「苦しむ」というワードのニュアンスは、ネガティブに感じる人も多いのかも知れませんが、人生の苦しみを知らない人の方が少数派ではないかとも感じますので、人生の現実的な解釈のように感じます。

むしろ、「苦しんで生き生き」というつなげ方には、斬新さもありますね。

人生には、艱難辛苦もありますが、喜怒哀楽もありますね。苦しみを味わいつつエンジョイできる人生を送りたいですね。

頼りにするのは?

『兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(2コリント1:8-10新共同訳)』

最近は少し負荷がかかる作業をすると「もう死にそう」などと口にする人が多いそうです。明治や大正生まれの人よりも若い世代がすぐ口に出す傾向があるというのです。

パウロは、一般人には到底しないような経験を数多く味わいました。その中には、ここに記されているような、命の危険を伴うものもありました。

パウロでさえ「生きる希望」を失って死を覚悟するとは、どれ程の経験でしょうね。

でも、そんな時「大丈夫!」という声が聞こえたかのように、自分ではなく「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ようにしたのですね。

まさに「神に希望をかけた」のですね。

いつの時代にも、迫害はあるのですね。

どのような時代でも、神に希望を持って生きていきたいですね。

「にゃー」と反応する不思議な布

youtu.be

こんな不思議な布が欲しいと感じる方がいるでしょうね。

ネコ好きにはたまらない感じのレスポンスですね。

しかし、ネコちゃんには、カワイイ鳴き声と共に鋭い爪もありますから、ご用心ですね。

もぐったり、ハマったり、かくれんぼが好きなのはどうしてでしょうね?

自分という器を知ると…

血液型診断とか星座占いなどで、自分のことを知った気になれる手法があります。

実際は、実態の一端を見られているかどうかですね。

同じ屋根の下で生活をしている夫婦や家族でさえ、お互いのことは、分からないことだらけではないでしょうか?

そもそも、自分自身のことが分かっていないのですから、それもやむを得ないことですね。

俯瞰をしている自分、つまり、客観性をもって自分を見るという視点が自分を観察することには非常に役立ちます。

人の器を器量と表現したりしますが、それは、自分の許容範囲と考えると分かりやすいですね。私は、そのように考えています。

それが分かると、自分の耐久性の判断材料にもなるのです。

等身大の自分を受け止めて、適度な期待をして、可能性を追求していきたいですね。

人生は小さな事の積み重ね

『大きなことを出来る人はたくさんいますが、小さなことをしようとする人はごくわずかしかいません。 マザー・テレサマザー・テレサのことば-神さまへのおくりもの-)』

マザー・テレサは、貧しく死に行く人の手を握り、寄り添った愛の実践者として有名です。それは、一見、誰にでもできる事のように見えますが、実際は、そう容易くできることではないようです。

また、毎日の積み重ねが、今日の自分を作り、今日の積み重ねが、明日の自分を作っていくという、まるで年輪を刻むような「小」が積み重なっていくのですね。

小と思えることを「コツコツ かつ コツコツ」やることを丁寧に積み重ねていく姿勢が大切なのですね。

今は、少なくなったそうですが、小学校に立てられていた薪を背負って歩きながら本を読む二宮尊徳像のご本人は、次のようなことばを残していらっしゃいます。

『大事をなさんと欲せば、小なる事をおこたらず勤しむべし。小つもりて大となればなり。 二宮尊徳(二宮翁夜話 改版)』

 

避けて通れない試練

『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリント10:13新共同訳)』

四面楚歌になり、「天の助け」が欲しい時が、人生の中には来ますね。

そのような中で、人によって対応が大きく差が出てくるようです。

特に、夫婦の間でも、夫は「この事業が失敗したら格好悪いし恥ずかしい」と考え夜も眠れない日が続いたり、一方、妻は「何とかなるから、クヨクヨ考えていても仕方がない」と夜はグッスリ眠っていたりくらいの差があるようです。

人間は、取り繕って生きている自然界の中では珍しい動物ですから、このようなことが起きるのかも知れませんね。

しかし、その人間に対して、創造主である神は、真実に、試練と共に「逃れる道をも備えて」いてくださると言うのです。

試練には、必ず、何らかの意味があり、それらは、試練とセットでしか体験できない得がたいアイテムなのでしょうね。

そのような時には、静まって神と祈りを通じて対話をし、試練の意味を問い、慰めを求め、気づきや知恵を得、癒やしを体験することができるのですね。

試練の役割は、「一人一人を神に向かわせる」ことが、第一の意味なのかも知れませんね。