永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

自分の気持ちと限られた時間と相談

自分のやりたいことと、自分に与えられている時間・予算・空間などを洗い直してみる必要がありますね。

多才で多趣味な人は、悩みが深いでしょうね。

一方、何かに深くハマっている人は、間口は狭く、奥深くという感じですね。

多趣味の場合は、ある程度の深さを極めようとするならば、絞り込みが大切かも知れませんね。

自分には、身体は一つしかありませんし、時間も限られていますからね。

人生的に考えると、料理が得意な人には美味しく食べてくれる人も不可欠ですから、料理が趣味と限定せずに、食べ物が好きと括りを変えて見るとか、工夫をしてみると違った楽しみ方や人選になっていくのかも知れないですね。

おいしいモノを食べるのが大好きでも、人間には胃袋は一つしかないので、それは、それで、悩みどころではありますね。

「BEING」「存在する神」 時間を超越している存在

『神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出3:14新共同訳)』
『あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。(イザヤ40:28)』

『とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主』というのは、限りが無い過去から将来に至るまで存在し、すべての創造主でもあるというのですね。

英語の「Being」は、上帝とか神を指す表現で、人間の場合は「being」となるようです。

上の箇所では、肉眼では決して視認できないけれど、『わたしはある』という御方が神であり、存在するのだと、モーセに顕現されたシーンの記述です。

肉体的生命に宿る人には、これを受け入れるか、拒否するか? 保留するか?の選択権があります。

信仰者というのは、『わたしはある』という方を、自分を創造された存在として認める人を指しています。ここが、正に永遠への分水嶺になるのですね。

ロシアの軍人の美声(3分間)

youtu.be

ロシア正教会聖歌隊の精鋭のような美声です。

5人の声がここまで広がりを見せるとはスゴいですね。

さすがに、言葉は理解できませんが、その音だけでも、スゴく癒やし効果を感じますね。

軍のサークル?音楽隊?などの活動なのかも知れませんが、軍服を着ていなければ、軍人だとはわからないでしょうね。

ロシアの人材の豊富さやフトコロの深ささえも感じる動画でした。

決断に慣れるとはかどる

人生は、決断の連続です。意識・無意識にかかわらず、決断をしているのですね。

しかし、疲れてくると保留したくなる時も出てきます。

そんな時には、一時的に静まって、自分なりの基準を設定して、再び、決断を開始することができるのですね。

この決断の積み重ねこそ、最大のトレーニングで、これにより、決断力が鍛えられるのだそうですよ。

何かを選ぶということは、他を選ばないコトでもあり、優先順位が明確でないと決断できなくなっていくのですね。

自分の中で、どのような基準で選ぶのか?を決めることが第一歩ですね。

このあたりに、意識を集中して考えるポイントがありますね。

人間は、いくつになっても、未熟な領域がある

「生きている限り、人は成長できる」とか「いくつになっても筋肉は鍛えられる」などと言われます。

肉体的生命に宿っている人間は、当然、完全・完璧なものでは無いようですね。

逆に言うと、欠点を探せば、キリが無いほどです。

肯定的に言うと、「成長の余地はまだまだある」ということですね。

「怒り」について、時々、書くことがあるのですが、これには、表現の成熟度が計られているようにも考えています。

「あの人は、○○があるとすぐ拗ねる」とか、「えー、こんなことで?」と周囲が感じてしまうようなこともありますね。

一方、我慢強い、忍耐強い、決して「辛い」と口に出さない人もいます。

表現と言うことに関して言えば、何らかの言葉などで、一次感情を出し、自分で認識すると、影響は最小限で済むのですね。

しかし、それが、鬱積し、堆積していくと、自分のためにも、周囲のためにも、リスク要因になります。ある瞬間に堰を切ったように「怒りの泉があふれ出す」ことになりかねないからです。

DVをするクセがある人は、成長の余地があるのだと考えています。人との関わりで、受容されて成長するのが一つの方法なのですが、規範を持った相手との関わり(カウンセリングなど)を持って、自分の振る舞いの習慣を自己認識できる機会が大切なきっかけになるように考えます。

習慣化することも大切なのですが、時には、習慣を棚卸しして、習慣を改善していくことも人生には、大切なのですね。

どういう所なら行きたくなる? 優先順位を変えさせるモノ

2030年問題の一つに、「宗教団体が立ち行かなくなる」というものが提起されるようになってきました。

現在でも進行中の実働動員数の減少です。

理由としては、コミュニティのニーズや魅力の低下などもあるのではないでしょうか?

右肩上がりの時代は、御利益信仰もあり、祈祷すると少なからず御利益を得る人があり、それにあやかりたい信者数を伸ばしてきたという背景があるように感じています。

幼稚園や保育園など、子育てサークル・子どもサークル・英会話や学習塾などもコミュニティの魅力としては貢献していたのでしょうね。

今の時代にニーズとしては、上記の教育環境の外、「聴く」というニーズもあるように感じています。自己承認をしてくれる場所を求めている人が多いでしょうね。

ただし、自己承認の先の人間的成熟までの道のりが見えないと入れ替わりが激しいだけの集いになってしまいそうなので、このあたりが考えどころですね。

ポイントは、自分がどういうコミュニティなら参加したいか?ですね。

あなたの2030年問題は何ですか?

あなたの遺産、何を遺したいですか? 何が喜ばれるのでしょうか?

農業塾をしていた人が金庫に入れたいと思ったものは何でしょう?
その人にとっての宝物は、そういうモノなのでしょうね。それが、遺されて喜ばれるモノかどうかはわかりません。

TV番組で「開かずの金庫を開けろ」なんてやっていますが、後世の人達が、お宝(大判小判がザックザク)を夢見て開けてみても、「中味はカラ」なんてこともザラです。でも、開けてみて、「もやもやしていた気持ちがスッキリした」となるようですね。

『あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。(マタイ6:21新改訳2017)』

聖書の中には、このように記されています。自分が心から宝だと認めるのですから、自分の大切な気持ちも一緒に金庫に保存されるコトになるのですね。

その人にとっての宝物は、生徒さん達からのバースデーカードでした。後世の人は、それに対して、どのように評価をするのかわかりません。

金銀財宝はある程度喜ばれる要素を含んでいるでしょうが、それの争奪戦という大きなリスクも内包しています。

近年、「相続」ではなく「争族」という言葉もメジャーになってきました。

金銀財宝を奪い合う光景よりも、一通の感謝状を囲んで微笑む光景の方が平和的なのかも知れませんね。