永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

苦労は積極的 ショーペンハウアー

『すべての享受と、すべての幸福とは消極的なものだが、苦労は積極的なものだ。ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(中央公論新社)』

「若いときの苦労は買ってでもしろ」などと聞いたことはありませんか?

なんで、わざわざ、苦労をしなければならないのか疑問だという話もありますね。

でも、このフレーズからは、そのようなニュアンスが滲み出ています。

ショーペンハウアーは、ゲーテに認められて弟子になったこともあるようです。

後にベルリン大学で講義をする事になっても、人気もあるのに、聴講する学生からは理解されていないという葛藤があったようです。でも、玄人には理解されるという板挟みを経験しているようです。

彼にとっての苦労は、どれほど深かったのか? 私には、見えていない部分もあると思いますが、意志と表見見せる風景のギャップには、大きな戸惑いがあったことが推察できます。

苦労を避けようとするのも、時には、大切な選択でしょう。

でも、苦労を通じて、その向こうに見えてくる景色は、また違うと思うのです。

また、消極的だと評価されている幸福ですが、これを当たり前と思わないマインドを大切にしたいと考えています。

あえて、苦労を選び受けとめるなら、腰を入れて、がっぷり四つで向かいたいですね。


アルトゥール・ショーペンハウアー(独: Arthur Schopenhauer,1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツの哲学者[1]。主著は『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)[1]。舞台発音ではショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも[2]。
博士論文から『意志と表象としての世界』へ
1812年(24歳)、ベルリン大学でのフィヒテとシュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わり、これに反し古典文献学者ヴォルフを学者としても人間としても高く評価する[13]。1813年(25歳)春、戦争の危険を感じ第四学期の済まないうちにベルリンを去りワイマールの母のところへ帰ったが間もなく母と気まずくなり、ルードルシュタットのホテルにこもって博士学位論文『根拠の原理の四つの根について』を完成、イエナ大学に提出し、10月18日に哲学博士の学位を得る[13][18][19]。刊行された論文の最初の読者となったゲーテはその才能を高く評価し、自身の指導のもとに色彩現象を研究するよう懇請する[18][17][注釈 4]。
『意志と表象としての世界』以降
1825年(37歳)、再びベルリンへ戻り、改めてベルリン大学で講義を行なおうと試みると、講義への聴講届は多かったものも、相変わらず理解されない[22]。しかし『意志と表象としての世界』は詩人ジャン・パウルにより『小書評』にて輝かしく批評される[22]。1828年(40歳)には『意志と表象としての世界』第二版を意図し、「わが父の霊に」という献辞を書き、また1829年(41歳)にはカントの主著を英訳して出版することを計画している[22]。1830年(42歳)、『視覚と色彩について』をラテン語に書き改めた『生理学的色彩論』Theoria colorum physiologicaを『眼科学的著述小全集』(ライプツィヒ、レオポルト・フォス社刊)第三巻の巻頭論文として発表、同じ年バルタザール・グラシャンの人生智三百則よりなる『神秘必携と処世術』を翻訳、しかしこれは死後に公刊[22][23]。このころ結婚の計画を考えたり打ち捨てたりしている[23]。

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環境整備は街路樹を枯らすこと?

大手の中古車を扱う会社が、環境整備というワードを使った珍事件がありました。

それは、店舗と道路の間にある街路樹を枯らして、伐採したりすることを意味していたようです。

この街路樹は、公的な管理のもので、キル場合は役所に申請をして承認を得る必要があります。

でも、いつの間にか街路樹が根元からスッパリと消えていたと言うのです。

ここから、推察すると、この環境整備は、道路からの視界を確保する為のものだった可能性を大きく感じます。

一般的な環境整備という概念は、適正な街路樹の維持や緑化推進だったりします。

何か、会社側の強い偏った意思や意図を感じます。

その様なことが、できてしまったということに、ビックリするしかないのです。

自分にとって、邪魔だからという理由だけで、道路標識や信号などを撤去するような行動に繋がりかねない危うい考え方のようにも感じます。

かなり大きなチカラを背負った会社なのかも知れませんね。

保険でなおせるからと言って、車を傷つけて、補修をするという、仕事を生み出すこともあったと報道されています。

故意に壊したのなら、保険適用外になるはずです。

でも、その請求は、すんなりと通っていたようですから、またまた、ビックリです。

その様な結果、顧客の負担する保険料の掛け金がUPしたとしても、保険会社も自動車の修理業者もお財布には、チャリーンと大きな音が鳴り響いていたのだとすると、「なんだかなあ」という気持ちになりますね。

政治の世界でも、お金の流れの話は、次から次へと出てきます。

お金の適正な使い方は、非常に難しいのです。

湯水の如く、掛け流しにばらまくのは、健全ではありません。

でも、実際には、ジャブジャブの中で、濡れ手で粟という話もあるようです。

このような世の中が健全化することを期待しながら、自分の役割を淡々と果たしていきたいと考えています。

新しい自分と古い自分 1ヨハネ3:1 2コリント5:17

『3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。1ヨハネ3:1新改訳2017』

人間は、創造主である神【主】の愛に包まれて生かされていると信じ、その様に考えています。

その「神【主】の愛」を信じ受け入れると、「神の子」としての特権が与えられます(ヨハネ1:12)。

創造主である神【主】は、三位一体です。第一位格は父なる神、第二位格は子なる神(御子イエス・キリスト)、第三位格聖霊なる神で、三つの位格にして、その存在は一つです。

子なる神(イエス・キリスト)は、100%神でありながら、100%の人として地上に来られ、唯一の義人として、全人類の罪を背負い、その刑罰を十字架に架かり受けてくださいました。

これにより、それを自分のために適用する信仰者は義とされて、なおかつ、神の子とされるのです。

つまり、霊的には神の養子として迎えられ、イエス・キリストが兄になるのです。

信仰者は、誰でも、神の子であり、孫やひ孫は存在しません。

福音の三要素「イエス・キリストは、私の罪を背負い、十字架に架かり、死に、葬られ、三日目に復活された。」を受け入れると、神の子とされるのです。

人間は、生きていれば失敗する生き物です。

でも、悔い改めて、転身すると「神の子」としての立場を与えられるのです。

『5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリント5:17新改訳2017』

信じた瞬間に、第三位格である聖霊なる神が内住されます。

その瞬間から、「キリストのうちにある」として、扱われるのです。

つまり、肉体的生命は、やがて地上においていくものですが、キリストによる義の衣を着ることによって、【主】の前に「義(無罪)」として扱われるのです。

この世で、犯罪をしたのなら、その法律に基づいて、刑を受ける必要があります。

でも、人間はいつからでも、更生して変われるのです。

そして、「新しく造られた者」として、生きることができるのです。

どれだけ、品行方正を体現しているように見える人でも、キリストによる義の衣が無い状態では、【主】の前には、「有罪」なのです。

それは、アダム以来、人間の基本設定が「有罪」になっているからです。

これは、創造主である神【主】の方法によってのみ変更が可能なのですね。

リンク集

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キーワード 空中携挙 エゼキエル戦争 和平契約 第三神殿 ハルマゲドンの戦い 再臨のメシアは誰? イスラエルの運命は?

今から終末時代に起きること補筆版

大患難時代の聖書的基礎知識① 預言と獣の刻印(666)の回避方法

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/11/05/000000

大患難時代の聖書的基礎知識② 大患難時代の前半 七つの封印の巻物 七つのラッパ

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/11/12/000000

大患難時代の聖書的基礎知識③ 大患難時代の後半 第七のラッパ 七つの鉢の裁き ハルマゲドンの戦い

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/11/19/000000

大患難時代の聖書的基礎知識④ 大患難時代と私の関係性

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/11/26/000000

ハルマゲドンの戦いについてリンク

ハルマゲドンの戦い① イズレエルの谷に反キリスト同盟軍集結 ヨハネの黙示録16:12-16

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/09/10/000000

ハルマゲドンの戦い② 政治的・経済的バビロンが滅亡 イザヤ13:1-5

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/09/17/000000

ハルマゲドンの戦い③ エルサレムが陥落する ゼカリヤ12:2-3、14:1-2

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/09/24/000000

ハルマゲドンの戦い④ ボツラに押しかける反キリスト勢 ヨハネの黙示録12:6-17

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/10/01/000000

ハルマゲドンの戦い⑤ イスラエルの国家的新生 エレミヤ3:12-18、ホセア5:15

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/10/08/000000

ハルマゲドンの戦い⑥ メシアの再臨 イザヤ34:1-7

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/10/15/000000

ハルマゲドンの戦い⑦ ヨシャパテの谷へ追い込まれる反キリスト勢 ヨエル3:12-13

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/10/22/000000

ハルマゲドンの戦い⑧ 勝利の後にオリーブ山に立つメシア ゼカリヤ14:3-5

https://howtogetfree.hatenablog.com/entry/2023/10/29/000000

【主】のめぐみプロジェクトは、下記から

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動画 そり遊び パパは歩きたくないので

youtu.be

賢い父親が子供の雪上チューブを助ける。
2024年1月18日撮影/ベルギー、ルスティン
「デウォルト・ドライバーを使って機械式リフトを作る。膨らませたそりをロープで引っ張り、そのロープを機械の軸に巻きつける。この機械は、18V 6ahバッテリー1本で70回のリフトを行った。ドライバーは最大トルクのためにスピード1に設定されている。"

これは、電動ドライバーの耐久試験の動画なのかも知れません。

パパの役割もナカナカ大変ですね。

でも、娘が楽しく遊んでいて、ご機嫌なのは、大変さを越えるエネルギーになることでしょう。

雪の日のタイヤソリ遊びは、健康的です。

この先には、固定型のウインチが設計されている可能性もありますね。

それはそれで、有料化されてしまう可能性もあります。

動画にするというには、この手作り感がちょうど良いようにも感じます。

この動画のような雪の積もった日は、テンションも爆上げでしょうね。

涙とパン ゲーテ

『涙とともにパンを食べたものでなければ 人生の味はわからない。ゲーテ

人生の苦労や苦悩を記したゲーテのフレーズです。

パンがあるだけ有難い状況なのかも知れません。

涙を流しながらパンを食べるという経験を持っている方も多いと思います。

私にも似たような経験があります。

それは、経済的などん底です。

商売の方法を知らずに赤字、手元資金も心許なく、どうなるのかと不安を強く感じたときがありました。

お金のメドが立たないと、お金を動かす優先順位が、考えられないのですね。

自分の健康が一番なので、食生活は基本に、キチンとする必要があるのに、それが、できていなかったのです。

これも、一種のセルフネグレクトなのでしょうね。

また、人間関係の中で理不尽さを感じて追い込まれた時もありました。

「No」と言えない環境に、身を置かざるを得ない期間がありました。

自分から、「No」を発信していけば、軋轢が生まれるのは当然ですが、人生の中には、そのような時もあるという苦めの経験でした。

それにしても、ゲーテの体験はどの様なものだったのでしょうか?

多才な表現者、また、研究者として、親や周囲の期待と、自分の使命感とのギャップが根底にあったのでしょうか。

これは、私の推測に過ぎませんが、彼の著作に、多くの人が魅了されるのも、この背景が影響していると考えています。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe[注釈 1]、1749年8月28日 - 1832年3月22日[1])は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。
その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。
シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として「植物変態論」、「色彩論」などの著作を残している。

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できないことを知る人生 でも、何かできることはあるはず

どれほど万能だと言われている人も、何でもできるわけではありません。

それぞれに、できる事とできないことがあるのです。

そして、得意なことと、苦手(不得手)なコトがあります。

これには、自己評価と他者評価に、かなりの開きがあります。

世の中には、その道のプロがいて、そこそこの解決策を提供してくれます。

DIYが広がってきている時代ですが、多くのケースは、工具を買って、そこで止まっているというイメージではないでしょうか? 

工具のメーカーやホームセンターなどの販売店が良い商売をしているのかも知れません。

確かに、プロが手を出さない、凝った細工をする「自称素人」がいますが、それは、稀な存在です。

そもそも、『できた』からが、感動体験のはじまりです。

でも、それは、偶然にできた可能性もあるわけです。

その次の段階は『できる』です。

これは、ある程度の確実性を持って、何らかの根拠と自信がある状態です。

多くの『できた』は、『できる』にたどり着けないことも多いのではないかと思います。

でも、自分で可能性があると考えるのであれば、『できる』ように努力していくのも悪くないですね。

しかし、人生の中には、それ以外の『できた』や『できる』が多くあります。

マインドを切り替えて、別のそれに向き合うのも、良いことがあります。

執着心は、時に大切ですが、執着しすぎると、よろしくないことや迷惑がられることも出てきます。

偶然、「できた」ことだけを積み重ねていっても、「できた」という事実は、自分を支える土台の一部になると私は考えています。

でも、「できる」ことの積み重ねは、さらに、強い支えに成ります。

「できない」ことは、素直に受容するしかありません。

何かのコツで、「できた」となるのか、何かを解決すると「できる」になるのかが見えてくれば、可能性は大きいです。

でも、何も見えないトンネルの中で、暗中模索をしていても、リスクが増えるのではないか?という懸念もあります。

人生は、色々なコトにチャレンジできるのが醍醐味ですから、興味があることを試してみるのが良いのではないでしょうか?

王の友として 箴言22:11

『22:11 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。箴言22:11新改訳2017』

「王がその友」と読むと、なぜだか、この讃美歌が浮かんできました。

讃美歌312番 
いつくしみ深き

いつくしみふかき ともなるイエス
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを

いつくしみふかき ともなるイエス
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん

いつくしみふかき ともなるイエス
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん
https://www.worldfolksong.com/hymn/friend-jesus.html

 

「友なるイエス」をどのように捉えるかは、人によって異なるでしょう。

私は、いのちをかけて助けてくれた「友」という実感を持ちたいと考えています。それは、私が肉体的生命に背負っているどうすることもできない課題である「罪」を贖って解決してくれたからです。

これが、「つみ とが うれいを とりさり」という部分です。

さらに、「などかは おろさぬ おえる おもにを」とあるのは、解決策が示されているのにいつまで、自分で背負いきれない重荷を背負うのでしょう?

人生には、努力も頑張りも必要ですが、助けてもらう必要があることも出てきます。自分で背負いきれない重荷は、引き取ってもらった方が良いと思います。

次に、「われらのよわきを しりて あわれむ」と出てきます。

メシアであるイエス・キリストは、100%神でありながら、100%人として地上で生活され、人間の喜怒哀楽を味わい、サタンの誘惑にも打ち勝ったのです。

そのイエスが友として、私の弱さを知って憐れんで下さるのです。それは、経験に基づいて寄り添ってくださると言うことです。

唯一の義人だからできた罪の贖いですが、それには、創造主である神【主】の愛が裏付けとしてあるのです。

それが、「かわらぬ あいもて みちびき」と歌われている部分です。創造主である神【主】の愛に包まれて、人間は生かされていると考えると、すごくホッとできるのです。

これが、創造主である神【主】を信じる信仰者の特権なのですね。

聖書をどの様に理解するかによって、「友なるイエス」の理解は変わります。あなたにとってはいかがでしょうか?