永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

わかりやすい聖書ガイドヨハネの黙示録発売中。肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

創世記とヨハネの黙示録の比較 創世記3:22~24 ヨハネの黙示録22:2

『3:22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
3:23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。 創世記3:22~24新改訳2017』

『22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 ヨハネの黙示録22:2新改訳2017』

 創世記では、天地創造(1:1)がなされましたが、ヨハネの黙示録では、新天新地(21:1)になります。

創世記とヨハネの黙示録の比較

 各項目は、創世記からはじまったこの世の状態から、新天新地で変化する状態を比較表示しています。つまり、アダム以来、人類が引き継ぎ背負ってきた呪い、罪、悲しみ、苦痛が取り除かれて、永遠の秩序である新天新地『楽園』へと変化するのです。

 それは、ヨハネの黙示録には、栄光の王としてのキリストが記されているからです。

 しかし、その姿は、『屠られた姿で子羊が立っている(ヨハネの黙示録 5:6 新改訳 2017)』なのです。それは、パプテスマのヨハネが『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ 1:29新改訳 2017)』と言った受難のメシアであったからこそ、人類の救済が完成し、新天新地で完結に至るのです。

 ですから、ヨハネの黙示録には、26 回も『子羊』という称号が記されているのです。

 また、それは、義人でありながら、ご自身のいのちを差し出し、罪人たちから十字架刑にされることを通じて、全血を注いで人類の救済を完成させた犠牲的な愛が、最も尊いことを示しているのです。

 ユダヤ人は異邦人にイエスを渡し死刑執行をし、これは、ユダヤ人だけの罪ではなく、全人類の罪と考えられます。イエスを亡き者にしたいという近視眼的な悪魔(サタン)に感化された人間と、死を通じて、人類救済を成立させる創造主である神【主】の視点の差こそ、注目点なのです。まさに、義人のメシアであるイエス・キリストが「罪とされた(2コリント5:21)」のです。

 イエス初臨の時に、『栄光の王』としてしか見なかった人間の浅はかさと、罪深さを垣間見せられつつ、アダム以来、人類はそれを引き継いできたという、肉眼では見えない「罪」の檻から引き出すための方法は、人知では理解し難く、正に、創造主である神【主】のみぞ知ることだったのです。

 このヨハネの黙示録を記した使徒ヨハネさえ、幻の中に、ユダの獅子をイメージしていたのかも知れません。でも、そこで見せられたのは『屠られた姿で子羊が立っている(ヨハネの黙示録 5:6 新改訳 2017)』メシアであるイエス・キリストだったのです。

 21 世紀の今、人類の救済は、完成されていて、新天新地で完結するのです。

 人類は『世の罪を取り除く神の子羊』を信仰で受け入れるのか?を問われ続けています。それは、個人の自由意志に委ねられています。

 その先にあるのは、裁き主としてのキリストの役割です。しかし、原則は、贖い主が先立ったように、恵みが先で、裁きは、はるか後なのです。