永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

新しいエルサレム 不夜城と究極的祝福 ヨハネの黙示録22:3-5

『3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。 ヨハネの黙示録22:3-5新改訳2017』

そこに住む都の住民の「額には神の御名が記されている」のです。アダムとエバがもたらした呪いが、すべて取り去られ、創造主である神【主】は、永遠に罪を裁く必要がなくなるのです。

新天新地には、あらゆる時代の聖徒たちが、その都の住民となります。神と聖徒の間に、継続的な交わりがあるのです。

創造主である神【主】と表現してきた背景を説明します。それは、「天の神」と「神」または、「神々」の区別をしたかったからです。三位一体(父・子・聖霊)の概念は、人間には理解が難しい要素があります。

「神に仕え(3)」は、ギリシャ語聖書の原文では、「彼に仕え」(単数形)とされていて、神と小羊の代名詞は、単数形の「彼」となっているのです。「御顔(4)」は、原文では「彼の顔」と記されています。この箇所は、三位一体の教理を証明する強力な証拠とされています。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)」や「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)」なども参照して下さい。

「彼らの額には神の御名が記されている。(4)」とありますが、これは、フィラデルフィアにある教会への約束(ヨハネの黙示録3:12)が成就すると考えられます。

新しいエルサレムの住民たちは、神が所有する宝の民となるのです。彼らは、神に仕え、神を礼拝するのです。

新しいエルサレムは、夜が巡ってこない都(不夜城)です(5)。

不夜城と言うと、今の世の中では不健全なイメージが強いですが、新しいエルサレムでは、健全な不夜城になります。それは、罪から来た呪いである闇が取り去られ、太陽や月が取り去られ、創造主である神ご自身が都の光源となるのです。そして、聖徒(贖われた者・信仰者)たちは、シャカイナグローリー(神の栄光)に照らされて祝された生活を送る事ができるのです。

いのちの木の項で触れましたが、新しいエルサレムの住民は、全員が肉体ではなく、栄光の体です。肉体を維持するための栄養や睡眠からも解放されるのですね。

この都の住民には、なんらかの役割をそれぞれが与えられるようです。

『2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
3 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。 1コリント6:2-3新改訳2017』

これによると、今は創造主である神【主】からの指令を天使が受けて、人に届けると言うイメージですが、新しいエルサレムでは、その立場が逆転するようです。どうなるのかは、その時のお楽しみです。

夜がないというのは、ヨハネの黙示録21:11に出ているシャカイナグローリーと似ています。この光に照らされることによって、夜がやってこないのです。

ここで、死の意味について考えます。

創世記に記されているように、アダムとエバが罪を犯したとき、罪がこの世界に侵入しました。そして、創造主である神【主】は、彼らをエデンの園から追放しました。

『22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。 創世記3:22-24新改訳2017』

植物の園エデンからアダムとエバを追放した理由は、彼らが永遠に生きないようにするためです。そのために、エデンの園の東に、「ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣」が置かれたのです。

これは、神の恵みによる行為です。しかし、この箇所は、受け取り方によっては、「非情で容赦が無い神」というイメージを持つ人もいますね。

堕落した状態で、いつまでも生きるのは、実に悲惨なことだと想像します。これを、神は、メシアであるイエス・キリストの死を通して、地上生涯の苦しみに終止符を打って下さるプランを備えていたのです。そこに神の恵みがあるのです。

そして、ヨハネの黙示録21章と22章で、楽園の回復が約束されています。ですから、死は、神を信じる者(聖徒)にとっては、その楽園に到達するための通過点なのです。

聖徒が味わう究極的祝福は、神との継続的な交わりです。

旧約時代では、神を見ると死ぬとされていました(出エジプト33:20-23)。新しいエルサレム聖なる都では、「3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(ヨハネの黙示録21:3)」と記されています。

かつて詩篇にうたわれた「11 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。 詩篇16:11新改訳2017」が成就されるのですね。

聖徒(信仰者)たちは、罪から解放され、罪のない世界に住むようになり、神の御前で味わう喜びと楽しみは、今は想像できないようなものでありましょう。このヨハネの黙示録21章と22章の約束は必ず成就するのです。

「12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。1コリント13:12」

ローマ時代の鏡は曇っていました。でも、やがての時には鮮明に見ることができるという比較表現です。

「2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。1ヨハネ3:2新改訳2017」

この時をイメージしながら、「今ココ」に励みたいモノです。

「15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。ヘブル4:15-16新改訳2017」

今でも、信仰により神の宮(聖霊の宮)とされ、内住された聖霊と共にあるので、主が共に居ることを味わうことができるのです。