永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

白馬に乗った御方(本当のメシア)ヨハネの黙示録19:11-18

『11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。ヨハネの黙示録19:11-16新改訳2017』

いよいよ「キリストの再臨」についてです。

白い馬に乗った方の啓示(11~13節)

「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた」と記されているのは、再臨される時のキリストです。

「天が開かれる」という表現は、イエスバプテスマを受けたときに、天が開かれて聖霊が鳩のように下ったという記述があります。ここでは、天が開かれて再臨のメシアが地に下ってこられるのです。

ヨハネの黙示録4:1では、ヨハネを招くために天が開かれましたが、ここでは、キリストが地に下るために天が開かれるのです。

「白い馬に乗った方」という表現については、ローマ軍の将軍は、白い馬に乗ったという歴史があります。それがどのような根拠によるものかは分かりませんが、再臨のキリストの白い馬と重なるイメージは気になる所です。

再臨のキリストは、天の軍勢の将軍として白い馬に乗られます。初臨のキリストは、エルサレム入城の時にロバの子に乗られましたが、再臨のキリストは白い馬に乗られます。馬は戦いの時に使われ、ロバは平和的な意味合いがあります。

また、この白い馬は勝利をも意味しています。

「確かで真実な方」と呼ばれる方という表現は、ヘブル的には、名前やタイトルは、その人の実質を表わす事になっています。その名の通り、キリストは、ご自身の約束に忠実で真実なお方なのです。

『そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。 マタイ24:30新改訳2017』

「確かで真実な方」と呼ばれるキリストと真逆のポジションが反キリストで、契約を破る不真実な者です。

「義をもってさばき、戦いをされる」と記されているのは、キリストが、すべての敵を滅ぼされます。この戦いは、反キリストと悔い改めない罪人に対する神の怒りの表現なのです。

「その目は燃える炎のようであり」とあるのは、キリストが、すべてのことを見抜かれるお方である事を指しています。同じような表現が以下の聖句にも出てきます。

『14 その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。 ヨハネの黙示録1:14新改訳2017』

このように、キリストが再臨される時、すべてのことが明るみに出されるのです。

「その頭には多くの王冠があり」と記されているのは、ギリシャ語でダイアデムと言われる王がかぶる王冠を意味しています。キリストは王の王なのです。キリストの権威に挑戦できる者はいないのです。

「ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた」とあるのは、キリストが、筆舌に尽くし難いお方であることを表現しようとしています。

その御名はまだ啓示されていません。実際の名は、「神のことば(ヨハネ1:1)」なのです。

「その方は血に染まった衣をまとい」と記されていますが、この血は、イエスご自身の血ではなく、敵の血なのです。

イザヤ書63:1-6には、この預言が記されています。
エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。」
「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。」
などと記されていて、キリストは、裁き主として戻って来られるので、悔い改めない敵の血が流されることが預表されているのです。

キリストの再臨(14~18節)について

「軍勢」は複数形が使われています。2つの軍勢が再臨のキリストにつき従いますが、敵と戦うのは、キリストだけなのです。

天使たちの軍勢については、マタイ伝16:27、25:31、第二テサロニケ1:7に「御使い」と記されています。

聖徒たちの軍勢については、「白くきよい亜麻布を着て」と記されています。ヨハネの黙示録19:8では、同じ言葉がキリストの花嫁に用いられています。

「鋭い剣」についてですが、剣は、敵を打ち破るキリストの権威を象徴しています。「口から…出ていた」とあるのは、「ことば」をもって敵を滅ぼされるのでしょう。

「鉄の杖」については、詩篇2:9にも同様の表現があり、比喩的表現です。つまり、キリストの統治は完璧であり、それに従わない者はいないという意味合いです。

「全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれる」と記されているのは、裁きを意味する比喩的表現です。

実際には、ぶどう液ではなく、裁かれた者の血が流れ出します。再臨のキリストは、裁き主ですから、悔い改めない者、反逆者を徹底的に裁かれるのです。

「その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた」とあるように、長く待望していた栄光のメシアが、その時、ついに来られるのです。