永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

新しいエルサレム いのちの水の川 ヨハネの黙示録22:1-2

『1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 ヨハネの黙示録22:1-2新改訳2017』

新しい聖なる都エルサレムの特徴の続きを述べます。

ヨハネは、いのちの水の川を見せられて、「水晶のように輝く、いのちの水の川」と表現しました。

この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れます。

これは、字義どおりに解釈し、新しい聖なる都エルサレムに実際の川が流れると言うことです。

そして、この川は、新しい聖なる都エルサレムにおける霊的祝福の象徴でもあります。

想像すると、「いのちの水の川」は、ナイル川ほどの大河ではなく、幅の狭い川なのでしょう。その両岸に「いのちの木」があると記されていますから、それを見渡せるようなイメージを持っています。

千年王国に時間を巻き戻して説明します。千年王国でも、2つの川が登場しますが、新天新地とは違うので、混同しないように気を付けたいです。

千年王国は、神殿の敷居の下から流れ出る川(エゼキエル47:1、ゼカリヤ14:8)で、エルサレムから流れ出て、死海と地中海に分かれる湧き水を意味します。地理的にも、千年王国はこの地球上であり、新天新地は別の環境になるのです。

また、統治形態も、千年王国は、キリストが神の代理人(王の王)として統治するためのものという位置づけです。

新天新地では、「神と小羊の御座」として存在し、神ご自身が、この川の源なのです。その御座には、神と小羊がともにおられるのです。つまり、キリストの神性が証明され新しいエルサレムでは、神としてのキリストが統治されるのです。

いのちの木について

エデンの園に、いのちの木がありました(創世記2:9)。しかし、アダムとエバはそれに目もくれずに、善悪を知るの樹を食べました。アダムが罪を犯したとき、死が被造世界に入ってきました。そして、アダムとエバは、エデンの園から追放されたのです。

新しいエルサレムでは、いのちの木が再登場します。このような記事を見ると聖書が繋がっている実感を持ちます。「罪」「病」「死」「さばき」などが記されている印象が強い聖書ですが、一番大切なのは「いのち」であり、「永遠の幸福」への導きが、この聖書の背骨なのです。「罪」「病」「死」「さばき」を嘆いて自己憐憫に陥り、この「いのち」に目が向かない人は残念です。もう少し、視点を変えると「いのち」そして、「永遠の幸福」が目に入るのです。

いのちの木は、都の大通りの中央を流れるいのちの川の両岸にあり、その木は、豊かな実を実らせるのです。

毎月が収穫期で、12種類の異なった実がなると記されています。想像するに、太陽と月の運行に依存しない新しい暦が登場するのでしょうね。

「その木の葉は諸国の民を癒やした。」と記されています。癒やしというギリシャ語は、「セラペイア」という名詞で、英語の「セラピー」の語源です。その葉には病気にかからないような予防的な力があるという意味で説明されています。

新天新地は、病気も死もない場所です。ですから、この葉が病気の治療に用いられるということではないようです。ヨハネは、黙示録の読者達に、今の世の中との比較をつけやすくするためにこの表現を使ったのかも知れません。

いのちの木の祝福を挙げるならば、食べる喜びが与えられ、満ち足りた生活が用意されているということなのですね。

そもそも、この新天新地に入るのは、肉体ではなく、栄光の体の聖徒達です。今の世界のように、肉体を生存させるための食事は必要無いのです。

それだけではなく、「いのちの水の川」と「いのちの木」がある環境は、究極の満ち足りた環境なのだと推察できます。