『それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は【主】がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るために【主】の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。(出エジプト34:29-35新改訳2017)』
人から注目されるために、顔をツルツルピカピカにしなさいというコンサルティングを聞いたことがあります。その理由は、顔が輝いて見えるので、魅力度が爆上がりになるからだそうです。
モーセの顔の輝きには、理由がありました。それは、【主】の栄光を見ていたからでした。モーセは月のように【主】の栄光を反射させていたのです。
それは、他社が認めるほどの現象でした。イスラエルの民が恐れ多くて近づくのをためらうような輝きでした。モーセが民を呼び寄せて、はじめて近づくという有り様でした。
そして、モーセは民にシナイ山で受けた【主】からの命令を伝達しました。
【主】と記しているのは、創造主である神を表すためですが、その理由は、「神」の位置づけにあります。人間には多くの価値観があり、神概念においても、神はいないと考える無神論者もいれば、何かを拝むことで神に繋がると考える人もいます。クリスチャンというカテゴリーの中にいると自認している人でさえ、自分にとって理想的な神概念を作り上げていることもあります。
人間の課題は、【主】を知ることです。
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝 12:1新改訳2017)』
そこから、葛藤が始まるのですが、最も重要なステップです。
新契約時代に示される【主】の栄光の啓示は、メシアであるイエス・キリスト(ヨハネ1:14、14:9、コロサイ1:27)です。その生涯の記録を通じて示された、人間の理解を超えた「【主】の全人類への愛」を自分のものにして味わえる人は、実に幸いですね。
さて、モーセは顔が輝いているらしいことに気づいて、顔おおいをかけることにしました。その輝きは、主の栄光の反射のようで、今の時代でいう蓄光のようなイメージだと考えています。だんだん薄れていく顔の輝きをイスラエルの民に見せたくなかったのでしょうか?
ベールに包まれるというと、結婚式の花嫁がかぶるベール、日本式に言うならば角隠しでしょうか?
その実体が分からないように覆うことがあります。今の時代でも、本当に大切なモノが見えないような、霧に包まれたというか、モヤがかかっているようなことがあります。
これは、自分の【主】に出会うことによって、見えてくる部分があります。必ずしも、見たくない部分も含まれますが、それらは、【主】の恵みにより覆われるということを実感して行く歩みでもありますね。