永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

恐怖と畏怖の念の差 出エジプト20:18-21 ヘブル12:18-21

『民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。(出エジプト20:18-21新共同訳)』

『あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。(ヘブル12:18-21新共同訳)』

 

日本では人間のこわいものの代表格として、「地震雷火事おやじ」と言われた時代がありました。

少々、時代は変わりましたが、ほとんどの人には、こわい(苦手)なものはあるようですね。

外見とのギャップを密かに観察して楽しんでいる人もいるようです。

雷鳴や稲妻は、かなり多くの人が、恐怖を感じるではないでしょうか?

こわいと言っても、種類があります。何がなんだかわからない恐怖と畏敬の念を伴うおそれがそれです。

日常的に、自分にとって苦手な対象を恐いと表現して避けたりしますが、畏敬の念を持って身を正すということの方が少ないのかも知れませんね。

出エジプトをしたイスラエルの民にとっては、この体験を通じて与えられた教訓があったのです。

それは、シャカイナグローリー(創造主である神の栄光の顕現)を中心とし、ここで民を試すことにより、死に至らない健全な畏怖の念を持たせることでした。

神の権威を体験しても、なんとかなるのではと考えてしまいますが、おそらく、ほとんどの人がたじろいでしまうことでしょう。

「たじろぐ」は、一歩二歩後ずさりすることです。畏敬の念を強く感じると、足がすくんで前に出られないということです。

この時の恐るべき光景を、後の時代にメシアを信じたユダヤ人に語られたのが、ヘブル書の記述です。「モーセが震える」と記していて、ユダヤ人には歴史的に刻みこまれ、語り継がれている事柄なのです。

それは、自らの罪を認識し、自分と創造主である神の間には、仲介者が必要であることに気づかせるためでした。出エジプトの時には、その役割をモーセが果たしていました。

でも、その役割の本質は、後に贖いを完成されたメシアであるイエス・キリストが担うのです。

シナイ山では、モーセだけが民の仲介者として創造主である神の前に進んで出て行ったのです。