永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

第十の災い 最初の過越祭り 出エジプト12:29-36

『 ◆初子の死
真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。(出エジプト12:29-36新共同訳)』

エジプト全土の初子(長子)が撃たれるというのが第十の災いとして実行されました。人間だけで無く家畜に及ぶ初子の死という衝撃が、エジプト全土に大きな叫びを起こしました。死者が出なかった家が一軒も無かったというのですから悲しみの叫びは想像もできないほどだったのでしょうね。

イスラエルの民は、創造主である神からモーセへと告げられた「最初の過越の祭」をしていました。『モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。(12:21-23)』

ここで示されている、エジプト人イスラエルの民との差は、永遠の差でもあります。

実は、「羊を過越の犠牲する」としたことは、御子イエス・キリストが、やがて、全人類の罪科を背負って唯一の犠牲となるひな型だったのです。それは、イスラエルの民の初子が死なないために不可欠な要素だったからです。

もう一つは、奴隷状態からの解放です。人間は、アダムがエデンの園で犯した罪のために、罪の奴隷生活を余儀なく続けてきました。出エジプトは奴隷生活からの解放ですから、やがて、御子イエス・キリストによる贖いが完成する時に、罪の奴隷状態から全人類が解放されるということも表されているのですね。

エジプト全土では、第十の災いが実行されていました。

これまで、揺れながらも頑として、モーセから伝えられるイスラエルの民を解放するようにという要望を拒否し続けてきたファラオも完全降伏です。

真夜中にモーセとアロンが呼び出され、「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」と告げたのです。エジプト人イスラエルの民をせき立てるように、急いで出て行くように仕向けたのです。

不思議なコトですが、イスラエルの民は、強奪すること無く、家畜や金銀財宝を奴隷生活の労働対価として受け取りながら、捏ねたパンの練り子を外套で包み、急いで、出エジプトをすることになったのです。

人間には理解不能な理不尽に感じる出来事にも、創造主である神の視点でみれば、何らかの意味があると考えないと、真理・真相が見えないように感じます。

「何で、あの人が犠牲になるのか?」ということが今の時代にもありますね。でも、人間にはわからないことですね。

やがて、天国で「そうだったのか!」とわかる時が来るのでしょうね。