永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

エジプト脱出本番 13:17-22

『 ◆火の柱、雲の柱
さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。(13:17-22新共同訳)』

「シャカイナグローリー」という言葉があります。あまり耳にしませんが、クリスチャン用語です。

「創造主である神の栄光が現れる」ことを指します。

肉眼では見えない存在ですから、出エジプトの時は、夜は火の柱、昼は雲の柱として、イスラエルの民を守り導かれたのです。

エジプトから約束の地まで、最短ルートで約300kmですが、それを約40年かけて移動することになるのです。そんなこと、誰も考えていなかったと思います。

陸路は、先住民がいたので、戦争をしなければ、道が確保できなかったのです。戦争となると、エジプトに逃げ帰る民が出てくる懸念もあったと記されています。

そして、誰もが想像していないルートへと歩を進めて行くのですね。

これは、創造主である神が民と共にいて、民を守り導くという、「究極的な導き」があります。

荒野の中でも、イスラエルの民は、生活に窮することはなく、世代交代しながらも、移動をし続けることができたのです。

主が共にいるという安心感がありながらも、人間の感情は無い物ねだりをしてしまいます。エジプトの奴隷生活の方がマシだったという人も現れてきます。

21世紀に生きる信仰者には、「神の宮」として「三位一体の第三位格である聖霊が内住」されています。ですから、「世の終わりまで共にいる」という主の約束は今も有効なのですね。