『翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」【主】はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」こうして【主】は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。(出エジプト32:30-35新改訳2017)』
モーセは、自らの命をかけて、【主】(創造主である神)に懇願しました。
人の罪を贖うためには、いのちの代償が必要なコトをモーセが理解していたからです。
率直に、イスラエルの民が金の子牛を神として作った罪を認めました。
イスラエルの民は、エジプトで行っていた裸踊りを金の子牛の前で行い、醜態をさらしました。
また、現地に住んでいた人たちもその光景を見ていたようです。
また、将来的にも、偶像崇拝をして、【主】から見捨てられた民として笑われる事になりました。
これに関しては、信仰者も他人事ではありません。信仰生活を続けていく中で、【主】が信頼できないと思ってしまう時が来ますから、そんな時こそ、「【主】の愛の原点」を思いだして、悔い改めて歩を進めたいですね。
自分よりも、周囲の人の方が、現状を分かっている部分はあります。
モーセには、リーダーとして自分の命をかけてでも、【主】に懇願するという覚悟がありました。
その懇願を【主】は受け入れ、今は、イスラエルの民をアブラハムに約束したカナンの地に導きなさいと命じられました。
イスラエルの民に対するさばきは延期されました。それは、さばきの主権は【主】にあるからです。
また、「わたしの使いがあなたの前を行く。」とあるのは、天使を意味し、出エジプト23:20に出てくる使い(メシアであるイエス・キリスト)と違います。状況に変化が生じて、交替となりました。
また、「わたしの書物」とあるのは、「いのちの書」を指しています。これは、生まれたら記され、救われないまま死ぬと消されるというものです。(参考:詩篇69:28)
また、黙示録には「小羊のいのちの書(13:8)」と出てきます。これは、信仰を持ち救われた人の名前が記されます。そして、その名は消されることはありません。
一度、救われたなら、その救いを失う事はありません。もし、「信仰を持った後は何をしても良いのか?」と考えてしまう人は、その信仰が【主】に認められていない可能性が大なのではないでしょうか。
肉体に生かされているいのちも大切ですが、永遠なる生命への備えも重要です。
いのちについて真剣に考えていきたいですね。