永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

創造主である神の顕現 出エジプト19:16-25 祝イースター

『三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。(出エジプト19:16-25新共同訳)』

創造主である神が、御座から、契約の民に律法を授与するためにシナイ山に降ると、「雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震え」ました。

創造主である神が、イスラエルの民のすぐそばに降られたのです。

しかし、結界が設けられ、モーセとアロンだけが、シナイ山に登ることを許可されたのです。

それ以外の民は、煙に包まれたシナイ山を震えながら見守るしかできませんでした。

このような光景を「神々しい」などと表現しますが、その場にいると、状況の変化に震えながら身を硬くしてジッとしているほか無いのかも知れません。

2021年は、4月4日がイースター(復活祭)です。イエス・キリストを自分のメシア(救世主)と信じている信仰者たちにとっては、クリスマス、ペンテコステと合わせて重要なお祝いです。

約2000年前の日曜日の朝、金曜日に十字架刑で葬られたイエス・キリストが、死に打ち勝ち、復活されました。繰り返し、弟子たちに対して、「三日目に復活する」と宣言(預言)していたのに、それを理解していた人は皆無だったコトになります。

それは、当然のことかも知れません。なぜならば、死者の復活自体が、常識としてはあり得ないことだからです。

ラザロが甦ったとの記述がありますが、彼はやがて死にました。イエスご自身が、御業を示すために、ラザロを再び生かしたのです。

でも、イエス・キリストの復活は、一時的ではありませんでした。それは、永遠への扉を開いた復活だったからです。

その時に、墓の見張りをしていたローマ兵は、復活したイエス・キリストに腰を抜かしたことでしょう。「死人のようになった。(マタイ28:4新共同訳)」彼らの任務は、イエス・キリストの屍を盗みに来る弟子たちを捕まえるコトでした。体制は墓に背を向け、外的に対峙していたのでしょうね。しかし、復活の瞬間は、大きな地震があり、天使が下り、大きな石を動かしたのです。まさに、神々しい光景が広がったのですね。

神の顕現にアダムのDNAを引き継いだ者は、神が用意して下さった衣を着ていなくては、耐えられないのですね。