永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

巻物の封印を解くのにふさわしいのは? ヨハネの黙示録5:1-14

『1 また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。2 また私は、一人の強い御使いが「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げているのを見た。3 しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。4 私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。7 子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。9 彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、10 私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」11 また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。12 彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」13 また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」14 すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。(ヨハネの黙示録5:1-14新改訳2017)』

この幻「7つの封印の裁き」を見せられたヨハネは「激しく泣いた」と記されています。それは、【主】の手にある「巻物」を開封する心当たりが無かったからです。ここから、想像すると、よほど鮮明でリアルな幻を見せられていたのでしょうね。

この巻物は、パピルス製で、糸で縛り、蝋の封印が7つあると考えるのが合理的でしょう。ローマ時代には、遺言は7つの封印で封じられることが多く、重要な文書は、7人の印を押した7つの封印で封じられました。ローマ人もユダヤ人も、巻き物に封印をする習慣を採用していたようです。

7つの封印は、巻き物の内容が完璧で権威があることを示しています。

巻物を開くためには、糸を解く必要がありますが、そのために封印を破らなければなりませんでした。

ヨハネが泣いた理由は、「その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかった」からです。しかし、「長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。…」と声をかけます。「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」と続け、「御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っている」のを確認したのです。

「ユダ族から出た獅子」「ダビデの根」「屠られた姿で子羊」は、メシアであるイエス・キリストが、確かな系図で、唯一の義人として、十字架で全人類の罪を背負い身代わりの死(屠られた子羊)を完成した。また、葬られ、三日目に復活されたことを裏付けています。

長老の一人は、そのことをヨハネに紹介したのです。

屠られた姿で子羊の「七つの角」は、キリストの全能、完全な支配を表わし、「七つの目」は、キリストの全知を表わしています。「その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊」は、キリストの偏在を表す比喩的言葉です。また、キリストを指して、「獅子」と「小羊」が使われます。「小羊」は初臨のキリスト(受難のメシア)を、「獅子」は再臨のキリスト(栄光のメシア)を意味しています。 

「子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。」

巻き物を受け取った時から、子なる神(第二位格)への礼拝が始まり、子羊の前に、4つの生き物(天使たち)、24人の長老たち(天に上げられた教会)がひれ伏して礼拝するのです。新しい歌を歌いながら。