永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

「口には甘く腹には苦い巻物」ヨハネの黙示録10:1-11

『1 また私は、もう一人の強い御使いが、雲に包まれて天から下って来るのを見た。その頭上には虹があり、その顔は太陽のよう、その足は火の柱のようで、
2 手には開かれた小さな巻物を持っていた。御使いは右足を海の上、左足を地の上に置いて、
3 獅子が吼えるように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声を発した。
4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天からの声がこう言うのを聞いた。「七つの雷が語ったことは封じておけ。それを書き記すな。」
5 それから、海の上と地の上に立っているのを私が見たあの御使いは、右手を天に上げ、
6 天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造って、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。「もはや時は残されておらず、
7 第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」
8 それから、前に天から聞こえた声が、再び私に語りかけた。「行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」
9 私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10 そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
11 すると私はこう告げられた。「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。」 ヨハネの黙示録10:1-11 新改訳2017』

「もう一人の強い御使い」は、「アロス(同質である別の清い天使)」を指しています。

大患難期の中間期に登場します。悪魔や悪霊と戦うミカエルだと考えるのが妥当でしょう。【主】は、ご自身の計画を実行するために偉大な権威と任務を委ねられた天使を遣わされるのです。

ヨハネは、「頭上に虹、顔は太陽のよう、足は火の柱のよう」という絵画的な表現で描写しています。

「手には開かれた小さな巻物(黙5章とは別物)」があり、右足は海の上、左足を地の上においていて、地の支配権を与えられています。獅子は威厳がある存在で、その叫び声が、7つの雷を呼ぶことなりました。

ヨハネは理解して、書き留めようとしましたが、天からの声で記さないように言われたので、記されませんでした。この部分は、その時にならないとわかりません。

続いて、世の終わりの宣言がなされます。

創造主である神【主】を指して、永遠に生きている存在、すべてを創造された【主】、すべてを統治される主権者である。すべての言葉は、すべて真理です。

その時代の聖徒たちは、試練を通過しながらも、主の平安を味わうことができるのです。これは、試練の真っ只中にある聖徒たちへの励ましでもあります。まもなく、神の時が来るという良い知らせです。

第7のラッパ(7つの鉢)から、大患難期の後半がはじまります。そこで、神の奥義(旧約の預言者の預言)がすべて成就されるのです。そして、「千年王国」へと続いていくのです。

前に天から聞いた声は、黙示録4:1で語られた【主】の声です。

ヨハネは、小さな巻物を受け取り、食べるように促されました。食べると、「口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」と、天使が告げたようになったが、ヨハネはそれ以上の説明をしませんでした。天使は「あなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」と言い、ヨハネは「口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」と記されているのは、キアズム(ヘブル的に韻を踏んでいる)と言われている文学的表現です。

その差は、「永遠の幸福(甘い)」と「永遠の不幸(苦い)」ほどの違いがあります。