『 ◆奨励と勧告 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。
イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19-22新共同訳)』
文化庁によると令和元年の末の集計で、日本には180828の宗教法人が存在するという数字があります。
宗教法人格を有しないものもありますから、おびただしい数の宗教があるということになります。
世界的に見れば、もっと多くの宗教があると考えられますね。
キリスト教系に限り大別すると、「キリストのみ」か「キリスト以外か」という視点も浮かび上がります。
これが、実際にはあるのです。
どれだけ、フレンドリーで居心地が良いと感じる団体でも、この視点で吟味する必要があります。
崇拝対象よりもリーダー崇拝が行われていたり、独特の律法制度が蔓延っていたりするのです。
人間の限界もあるのですが、信仰は個人単位であるという原則に立つ必要があります。
また、コミュニティーとして、「自分に合っているか?」 という点も大切ですね。
ダブルスタンダードやトリプルスタンダードは、魂に疲弊をもたらします。
そして、その人を蝕んでいきます。
「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」と記してあるのに、疲弊をしてしまえば、本末転倒です。
そこに集う一人一人が「信頼しきって、真心から神に近づこ」うを共有することが何よりも大切なのです。
旧契約に基づく幕屋は陰であり、本体である新契約の完了をもって成就されました。
メシアであるイエス・キリストが、犠牲として、大祭司として、隔ての幕を取り除いてくださったのです。
それを信じて、受け入れることによってのみ、新契約が信仰者自身に対して有効になるのです。
『しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(ヨハネ1:12新共同訳)』
この「言」こそ、神100%人100%であるイエス・キリストです。
御子イエス・キリストと言われますから、神の子とされる信仰者は、神の養子として迎えられ、イエス・キリストときょうだいとして、共同相続人にされるのですね。