永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ヨハネの黙示録のまとめ2 ヨハネの黙示録22:13-21

『13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。
16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。 ヨハネの黙示録22:13-21新改訳2017』

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(13)」は、旧約聖書的な表現です。

『6 イスラエルの王である【主】、これを贖う方、万軍の【主】はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。 イザヤ44:6新改訳2017』

キリストは、永遠の昔から永遠の未来に至るまで存在するお方です。そして、全能なる神です。

このキリストの神性宣言は、聖徒(信仰者)たちに励ましと確信を与えるものです。

ヨハネの黙示録の内容は、完全に信頼できるものであり、創造主である神【主】は、私たちを完全に救うことのできる方なのです。

罪の性質は子羊の血で洗われて清くされます。つまり、子羊の血潮によって贖われた者だけが、新しいエルサレムに住むことができるのです。


『18 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。1ペテロ1:18-19新改訳2017』

贖われた者は、罪から完全に清められているのです。彼らは、新しい都の住民となり、いのちの木の実を食べ、その都で永遠に生きるのです。

それとは比較できない、贖われていない者たちの悲惨な状態が15節で描写されています。贖われていない者たちは、絶対にその都に入ることを許されず、「燃える火の池」で、永遠に苦しみ続けるのです。

エスは、ヨハネに啓示を与えたのは自分であると宣言しています。

『1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。ヨハネの黙示録1:1新改訳2017』

そうであるがゆえに、ヨハネの黙示録は信頼できるのです。

エスの本質ついては、イエスは、「ダビデの根、また子孫」と記されています。それは、人間としてはダビデの子孫として誕生したということです。

さらに、「輝く明けの明星」と記されているのは、イエスの神性を表わしているのです。明けの明星が輝くように、イエスはシャカイナ・グローリーで輝くのです。

「明けの明星」は、民24:17に記されている、メシアを指すタイトルなのです。

「明けの明星」は、霊的暗黒時代の終わりが近いことを示唆しています。


17節は、罪人に差し出された「永遠のいのちへの招き」です。御霊と教会が協力して、罪人を招いているのです。

招きの言葉を伝えるのは、教会の役割で、そのことばを聞いた人を悔い改めに導くのは、御霊の役割なのです。「渇く者」とは、罪人のことです。

聖なる都にある「いのちの水」を飲めるのは、キリストを信じた者だけなのです。

人は、誰でも無代価(タダ)で救いを受けとることができます。

創造主である神【主】は、聖書の最後に至るまで、罪人を招いておられるのです。

18節から20節は、最後の警告です。この時代、著者が自分の書の最後に警告文を載せることがあり、それは、写本を作る書記への警告でした。この箇所の形式はそれに似ています。

最初の警告は、ヨハネの黙示録の預言に何かをつけ加えることを禁止するものです。

そのような人は、この書に書かれていた災害を受けることになると言うのです。預言に余計なものをつけ加えることは、自らの不信仰を証明する事になります。

第2の警告は、この書から何かを取り除くことの禁止です。そのような人は、いのちの木の祝福にあずかることができないのです。不信者は、預言のことばを取り除くことによって自らの不信仰を表明しているのです。

この警告は、第一義的にはヨハネの黙示録の預言に手を入れてはならないというものです。

ヨハネの黙示録が聖書全体の預言のまとめになっていることを考えると、聖書そのものに手を加えることを禁止したものであるとも考えられます。

余談ですが、異端的宗教の特徴は、聖書以外に、自分たちの聖典を所有していることがあります。これは、自分たちの主張を補完したい欲望の現れです。

この警告は、一度救われた者でも、救いを失う可能性があるということではありません。

真に救われている者は、聖書のすべてを神のことばと受け止めることができるはずです。

この警告は、自由主義神学者への警告にもなっています。信仰者は、聖書を理解する立場を慎重に判断する必要があるのですね。

「しかり、わたしはすぐに来る。(20)」とあるのは、主イエス自身が、証人になられたので、再臨は、いつ起こってもおかしくないのです。

それに対する聖徒たちの応答は、「アーメン。主イエスよ、来てください。」です。

「来てください」は、アラム語の「マラナ・タ」から来ています。これは、新約時代の聖徒たちが使っていたあいさつの言葉です。

『22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。1コリント16:22新共同訳』

キリストの再臨は、あらゆる時代の聖徒たちの希望です。21世紀に生かされている聖徒達の希望は空中携挙です。

この項の締めくくりは「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」と祝祷をもって終わっています。

無代価(タダ)で得られる永遠のいのちへの招きです。これを一人一人が自由意志で、どのように受けとめるかで永遠の差ができるのです。それぞれのチャンスがあるうちに、それを最大限生かしたいですね。

無代価は、値段がつけられない(プライスレス)という意味です。それは、この世の金銀財宝をもってしても支払い不可能だからです。

地上で起きる誘拐という犯罪の身代金は、本質的には、いのちの代金ではありません。誘拐が卑劣な犯行であることは、プライスレスな対象を取引の材料にするという点です。自分たちの目的が果たせなければ、いのちを殺めるという手段を安易に選択してしまうからです。

いのちについて、自分自身で考えてみる必要性があるのではないでしょうか?

それは、自分の健康状態にも及ぶ考え方です。どの様な環境で、どのような食生活を送るのか? 自分自身のことですから、熟考して選択していく必要があるのですが、そこまで、向き合えていないようにも感じるからです。

ですから、自分自身の永遠の選択については尚更です。宗教2世の環境にいた私は考える機会があり、自らの意志で「福音の三要素」を受け入れて「永遠の幸福マインド」を得るに至りました。

ヨハネの黙示録の学びとまとめは、永遠の幸福マインドを味わう良い機会でもありました。これを共有できる人と共に学び、希望を語り合って行きたいと考えています。