永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

わたしである。 ヨハネ18:3-6 存在する神

『それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(ヨハネ18:3-6新共同訳)』

旧約時代に遡ると、創造主である神は、エジプトで奴隷状態にあるイスラエルの民を引き出すために、モーセを選びました。

モーセは、かつてエジプトで生まれ、当時の王の勅令でナイルに投げ込まれた状態から、王女に発見され養子とされて、エジプトの高等教育を受けたキャリアを持ち、その後、ミデアンで羊飼いとして隠遁生活をしていた所に、第二位格の神が、燃える芝の炎として顕現されたのです。

「わたしは有って有る者(BEING)」とモーセに自己紹介されたのです。

前述の箇所でも第二位格の神が唯一無二のメシアとして「わたしである」と存在をハッキリと示しています。

その迫力に、捕縛しに来ていた兵隊たちは、「後ずさりして、地に倒れた」とも記されています。

存在感と迫力で圧倒したのでしょうね。

まさに、その存在感は、非の打ち所がなく、当時の権力者たちを遙かにしのいでいたのでしょうから、イエス・キリストに取って代わられる前に、抹殺するしか方法がないと考えていたのは、ユダヤ人指導者たちでした。

しかも、ローマ帝国の属国状態のイスラエルには死刑にする術がなく、ローマ帝国の手で、十字架刑にするという方法しかなかったのです。

唯一無二のメシアによる救済計画も、その時、その方法でしか成立しなかったようです。

すべてを司っている創造主である神が、政治的状況もコントロールして、永遠の生命に至る贖いを完成させて下さったのです。

これこそ、本当の神業なのですね。