「…真の霊性というのはその人だけでなく周囲をも高めたり、深めたり、広めたり、自由にしたり、豊かにしたり、厳かにしたり、本質的なものに向かわしめる、そういう性質をもっていると思います。ナーウェン的にいけば、ますますその人を、低さとか、貧しさだとか、小ささとか、そういう方向に導く。ところが今私が伝え聞く方向性というのは、自己拡大であり、慢心であり、騒がしさであり、大きさであり、成功である。だから、もしそういう方向が「霊的」ととらえられたら、そごい大きな混乱を招くのではないかと思います。…(今日における「霊性」と教会…いのちのことば社)p25より」
奇跡ばかり求めたりする信仰もありますね。そうなると、気になる症状が取り除かれたら、霊的という評価になり、取り除かれなければ霊的ではないという評価になるとか、妙な歪みが生まれます。
人間としては、症状の改善を創造主である神に願い出るのだけれども、それをどのように取り扱うかは、人ではなく神の側の権利だということなのですね。
霊的には、創造主である神の御前に静かに居て委ねることで、より謙遜にされていくのですね。
委ねる相手を間違うと「霊的」という名を使われて、搾取される危険性もありますから注意したい所ですね。
「イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(ヨハネ4:13-15【新改訳2017】)」
創造主である神との霊的な交わりによって、渇くことのない水が供給されるのですね。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23【新改訳2017】)」
そして、御霊の実を味わうことができるのです。