『6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。(ロマ8:6-8新改訳2017)』
人間は死ぬまで成長と言いながら、コツコツと運動や学びに励む高齢の先輩に接すると、非常に頭が下がる思いです。
人間にとって身体を維持する大切な要素は、栄養、睡眠、そして、運動だそうです。このバランスが崩れると「健康の維持」が難しくなると聞きます。
これは、肉体に限らず、魂にも当てはまるのかも知れません。
【主】の愛を受け入れた瞬間に、信仰者には「聖霊のバプテスマ」が与えられます。神の子とされ、御聖霊の内住があり神の宮とされ、永遠の生命がはじまります。
信仰者は、肉体的生命と永遠なる生命(霊的生命)に生きるコトになります。
これが、「無罪」とされた信仰者に対する新たな葛藤のはじまりです。「白い羊」と「黒い羊」などと例えられたりしますが、「肉の思いは死」と「御霊の思いはいのちと平安」の差でもあります。
この葛藤は、「聖化」と言われます。
あのパウロも自分自身が味わった、肉体にある葛藤を表現しています。
『36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。(ヘブル10:36新改訳2017)』
また、そのために「忍耐」が必要だとも記されています。
これは、信仰者が肉体的生命を離れる時まで続きます。その理由は、肉体的生命には「罪」の性質が付き物だからです。これは、切っても切り離し事ができないのです。
しかし、【主】の愛は、その「罪」と一体となった人間を、そのまま「キリストの衣」で包み込んで下さったのです。
ですから、肉体的生命から切り離された後に、【主】の前で「無罪」とされるのです。裏を返せば、この肉体の葛藤は、「肉体的生命に生かされていることの証明」とも考えることができます。
『30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ロマ8:18-39新改訳2017)』
信仰者は、肉体的生命の終わり「肉体的死」を迎える時に、天に移されます。または、生きているまま、イエス・キリスト自らが空中携挙される時に、召し上げられる信仰者はその瞬間に肉体的生命を脱ぎ去り、栄光の身体を与えられるのです。これを「栄化」と言います。そこからが、「永遠の幸福」のはじまりです。