『人間は、もはや誇りをもって生きることができないときには、誇らしげに死ぬべきである。 ニーチェ『偶像の黎明』』
人間の「誇り(プライド)」と言うのは、その多くは、ハウスダストのように、招かれざるうちに降り積もるものかも知れません。
プライドは、自己確立のためには大切な要素です。
しかし、自分を過大評価するときには周囲からは、指を刺され、警戒されることになります。
もう一つの懸念は、自分の過小評価です。自分を等身大で評価できない何かが潜んでいる状態です。
プライドは、自分を支えたり、自分を追い込んだりする魔物でもあります。
何かを「恥」と感じると、「こんな結果じゃ、人の前に出られないよ」と表現したりします。
そんなこと、周囲の人は、とっくに知っている可能性がありますよね。
「誇らしげに死ぬ」と書いてあるのは、日本の江戸時代の武士の生き様のようでもあります。
なんだか切ないですが、「切腹(ハラキリ)」のシーンを思い起こします。
少なくない武士が、「切腹(ハラキリ)」をしたであろうという悲しい時代です。その時代の価値観は、そのようにする事が、生き様を示す一面があったのだと理解するしか収めどころはなさそうです。
自分が当事者ならどうするか?
「死んだ気になって、生き恥をさらしながら生きてみたい」という願望もあります。
ただ、「誇りをもって生きる」事ができるかどうかが命題ならば、それを実行すれば良いという話ですね。
あやうく、命を絶つところでした。
つまり、自分自身の等身大の「誇り(プライド)」を磨きながら生きていくことをイメージしながら熟成していきたいですね。
その生き方は、やがての肉体的死を迎えるときに、周囲に何かを感じさせてくれるでしょう。
それを期待すると言うわけでもありませんが、健全なプライド磨きに励みたいと考えています。
現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版、ドイツ語版)に才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離脱して無国籍者であった[1][2]。辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。