『悪しき者のたましいは悪事に憧れ、その目に隣人へのあわれみはない。(箴言21:10新改訳2017)』
真面目な人間が肩身を狭くして生きている世の中のようにも感じます。
ワルい奴らが、大手を振って闊歩して、利益を熊手でかき集めているイメージでしょうか?
クリスチャン(信仰者)の証言(おあかし)でも、元アウトローの変化に富んだものはインパクトが非常に大きいです。
実際には、心からの信仰告白は、【主】の御前に尊いので、真面目な人は卑下する必要はありませんね。
ただ、人の視点では、大きな差があるのです。
あの人があれだけ変われたのだから、自分にも可能性はあると感じる部分があります。
嫉妬心が芽生えるとすれば、あのアウトローをしていた人に比べれば、自分はやりたいこともガマンしてきたのに、という後悔とも、何とも整理できない思いが、もたげてくる人もいることでしょうね。
究極的には、迫害者だったサウロが、宣教者パウロに変えられたように、【主】には不可能はないのですね。
ただ、誰が変えられるかは、その人次第ですね。
本人が変わりたいと願っても、変われない現実もあります。
聖書の原則は、「第一に神の国と神の義を求める」ことと「自分を愛するように隣人を愛すること」にあります。
隣人に対して、ある程度の関心を持ち、適度なサポートを相互にできるという関係は理想的です。
その為には、まず自分自身のマインドの整理が必要なのですね。
他人を支配し、搾取することから方向を転換することが大切です。
また、自分自身を愛する習慣を育むことも肝要です。
その積み重ねが、自分を愛するように隣人を愛する流れにつながっているのですね。
時には、人命に関わることで、自分自身のことよりも、隣人を介抱する必要が出てきますが、それは非常モードです。
アウトローは、自分の中にも潜んでいる可能性もありますので、自分自身を健全に愛して育んでいきたいですね。