『男には、不幸だけあるんです。いつも恐怖と戦ってばかりいるのです。 太宰治』
太宰治の雰囲気を醸し出したフレーズのように感じます。
彼の38年間の人生は、市井の人には一生かかっても体験できないような、波瀾万丈に満ちていたと聞きます。
地元の名士の家系に生まれ、成績は「甲」をつけられるコトになっていたらしいが、本当のところ太宰治は学業に秀でていた。感受性豊かで、芥川龍之介の自殺にショックを受けて引きこもったりしていたこともある。
男という宿命に不幸を感じ、恐怖と戦っていたことが滲み出ているフレーズです。
今の時代でも、「男らしく」とか「女らしく」という、明確な基準がないコトが流布されます。
求められているコトが、漠然としていたり、自分には達成できないような姿であれば、絶望感に繋がりかねません。
男に限らず女も、人間は一生、「○○らしく」という幻想に振り回されて終わるのかも知れません。
太宰治は、男としての辛さを吐露できたのですが、ナカナカ、他の人はモヤモヤとしたモノを抱えながらも、悶々と生きているのでしょうね。
まるで、自分にまとわりついてくる嫌な感じは、ほとんどの人が、何等かのカタチで味わっていることでしょう。
今の時代は先行きが不透明です。
一生の安泰を願って入った会社で、安泰に過ごせる人は、ほんのわずかになっているような印象があります。
業績が良ければ、過労死のリスク、悪ければリストラのリスクが常に追いかけてきます。
フリーランスは、いつ仕事がなくなるかも見当がつきません。
経済的な柱や社会的な貢献意識と合わせて、自分の存在意義を再構築(再確認)する必要も感じます。
私が私であり続ける為には、どのように考えれば良いのか?
自分の「あり方」の認識こそ、大切だと考えています。
これは、存在(being)ですから、本当の意味での自己発見ですね。
そして、自己受容することから、再スタートです。
「何をしたから良い」は行為(doing)の評価なので、二次的なモノでしかないのです。
何ができても、できなくても、存在的価値は損なわれることがないのです。
それが、自分なりに整理できていたら、不安はあっても、取り憑かれることは、回避できるのですね。