永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

モーセの逡巡 「私は知らない」 出エジプト3:13-22

モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。…」(出エジプト3:13-22新共同訳)』

モーセは、「私は神様を知り、共に居て下さると信じていますが、神様のことをイスラエルの民にどのように説明すればよいのでしょうか? それが、わかりません?」と言い出しました。

果たして、自分が出て行って、イスラエルの民が理解して、味方として、受け入れてくれるのだろうかという疑問と恐怖が湧いてきたのですね。自分は神を知っているつもりだけれども、説得力を持って説明ができる知識を持ち合わせていないということです。

確かに、「与えられた役割を誰の権威で行えるのか」とか、「その権威を持っている神の名前は何か」とか、「本当に肝心なときに助けを呼ぶことができるのか」など、信じるに足るものが求められるでしょうね。

この疑問に対して、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされた…」と示されました。

「すべてを包み込み、限界がなく自立自存で自立しているというのが、創造主である神の本質」ですから、それを説明するのには困難を伴いますね。

もう一つ「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というイスラエルの民にとって、「契約の神である呼び名」を示されました。

また、「やがて出現するメシアに至る系図に沿った契約を保証する呼び名」ですね。

選びの民のはじめとして呼び出されたアブラハム、そして、神にしかできない状態で授かった子孫であるイサク、そして、長子の権を譲り受けたヤコブへと繋がって行った系図は、イスラエルの民にとっては、良く理解していることですから、そのような呼び名を示すことによって受け入れることになると示されたのですね。

ドラマチックすぎることが起きるが、私が一緒にいるから大丈夫と言われたのですが…