『「いつまで 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち 不遜な者は不遜であることを好み 愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ わたしの言葉を示そう。しかし、わたしが呼びかけても拒み 手を伸べても意に介せずわたしの勧めをことごとくなおざりにし 懲らしめを受け入れないならあなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い 恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い 災いがつむじ風のように起こり 苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」(箴言1:22-27)』
創造主である神の「懲らしめを受け入れる」か否かが、境界線だというのです。
また、「わたしが呼びかけても拒み 手を伸べても意に介せずわたしの勧めをことごとくなおざりにし 懲らしめを受け入れないなら」とも記されています。
神の応答と呼びかけは、懲らしめとセットとして記されているので、人間にとっては選ぶのが難しくなりますよね。
でも、それを受け入れるなら「わたしの霊をあなたたちに注ぎ わたしの言葉を示そう。」とのことなので、これを、選択するのにも知恵が必要なのでしょうね。
創造主である神の呼びかけは、絶えずあり、知恵と救いが提示されているのですから、このチャンスを生かすのは、人間次第と言うことになりますね。