永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

神が待つ時、あざける時 箴言1:25-33

『25 おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。
26 わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。
27 恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、
28 そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。
29 それは、彼らが知識を憎み、【主】を恐れることを選ばず、
30 わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。
31 それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企んだことで腹を満たす。
32 浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」 箴言1:25-33新改訳2017』

創造主である神【主】のイメージは、人によって、かなりのギャップがあると感じています。

聖書の中には、「愛の神」という流れがありますが、それと同時に「裁く神」という表現もあります。

「何でもOK」の優しいだけの存在ではないことは確かです。

しかし、「神は笑う」とか「あざ笑う」という表現もあります。この箴言の中でも使われている表現です。

そして、時には「沈黙」される神でもあります。

遠藤周作が原作を著した「沈黙」という映画は、聴衆に様々なイメージを与えました。立場が変わると、感じ方も変わるので当然のことです。「信仰か、棄教か」を迫る権力者側の要求に、信仰者がどのような応答をするのかが描かれています。信仰者の多くは、肉体的生命を終えて、パライソ(天国)へと旅立ちました。

見ていて、「自分だったらどのように決断するだろうか?」と考えさせられました。

ここで取り上げた箴言の流れは、映画の沈黙とは、また異なります。

ここでは、忠告や叱責に対する応答が適切ではなかったので、「なんで叱責を無視したのか?愚か者め」というイメージでしょうか?

また、その先に、恐怖、災難、苦難、苦悩が襲っても、沈黙し、応答しないということです。

その理由は、「彼らが知識を憎み、【主】を恐れることを選ばず、わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮った」という理由が述べられています。

【主】に背を向けて叱責に耳を貸さず、自分のやりたいことだけをやるという人には、そのような対応をするというのです。

一方、信仰者は、「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」と記されています。

創造主である神【主】は、義を立てて、愛を確立しておられます。

それを、どのように受けとめるかは、人間に問われています。

それが、「忠告」であり、「叱責」というカタチで示される人間へのアプローチなのですね。

信仰者にさえ、沈黙される神ですが、その前に、「愛と永遠の保証」を約束して下さっているのです。

その約束を希望としているのが信仰者なのですね。