永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ののしりと懇願が半々の人間

『「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。(ルカ23:38-47)』

エスは、「ユダヤ人の王」メシアとして(メシアであるが故に)、十字架に架けられた。

そして、そばで見守って一部始終を見ていた百人隊長は、「神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。」と記されている。

不思議なコトに、この当時のユダヤ人には、死刑する権利がなく、異邦人である、ローマ兵によっての十字架刑の執行だった。

群衆達は、「イエスを十字架に磔にせよ」と叫んだ下も乾かないうちに「十字架から降りろ」とも叫ぶ矛盾を抱えてしまっている。

その背後に、サタンがいる。サタンは、イエスを人知れず抹殺したかったのだ。

抹殺に失敗すると、このタイミングでの十字架刑はまずいと感じて、群衆の口を使って「自分を救え、十字架から降りろ」と叫ばせたのです。

全能の神は、ご自身のタイミングで、永遠のプランを進められるので、サタンでも、止めることはできないのですね。

救い主と聞くと、何でも、誰でも助けてくれるスーパーマンであると考えてしまうのが人間です。

この場面で、イエスの十字架の両脇に、二人の犯罪人が、十字架刑を執行されていました。

一人は、『イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。』

もう一人は『彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』と言った訳です。

それに対して、『イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」』と応答がありました。

さて、私は、どちらの犯罪人なのでしょうね?

多くの牧師は、『「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』と言った方だと説きます。

でも、命をかけて宣教をしたパウロも、かつては、熱心な迫害者サウロでした。

信仰者といえども、悔い改める前は、イエスをののしった犯罪人の側でもあるのではないでしょうか?

十字架をはさんで、半分半分、どちらもあり、さらに、このイエス・キリストが備えて下さった「義の衣」を着る事によって「義(無罪)」とされるのですね。

これこそが、キリストを着ることの真意であり、信仰者の正体なのですね。