『「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。(ルカ23:38-47)』
イエスは、「ユダヤ人の王」メシアとして(メシアであるが故に)、十字架に架けられた。
そして、そばで見守って一部始終を見ていた百人隊長は、「神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。」と記されている。
不思議なコトに、この当時のユダヤ人には、死刑する権利がなく、異邦人である、ローマ兵によっての十字架刑の執行だった。
群衆達は、「イエスを十字架に磔にせよ」と叫んだ下も乾かないうちに「十字架から降りろ」とも叫ぶ矛盾を抱えてしまっている。
その背後に、サタンがいる。サタンは、イエスを人知れず抹殺したかったのだ。
抹殺に失敗すると、このタイミングでの十字架刑はまずいと感じて、群衆の口を使って「自分を救え、十字架から降りろ」と叫ばせたのです。
全能の神は、ご自身のタイミングで、永遠のプランを進められるので、サタンでも、止めることはできないのですね。
救い主と聞くと、何でも、誰でも助けてくれるスーパーマンであると考えてしまうのが人間です。
この場面で、イエスの十字架の両脇に、二人の犯罪人が、十字架刑を執行されていました。
一人は、『イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。』
もう一人は『彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』と言った訳です。
それに対して、『イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」』と応答がありました。
さて、私は、どちらの犯罪人なのでしょうね?
多くの牧師は、『「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」』と言った方だと説きます。
でも、命をかけて宣教をしたパウロも、かつては、熱心な迫害者サウロでした。
信仰者といえども、悔い改める前は、イエスをののしった犯罪人の側でもあるのではないでしょうか?
十字架をはさんで、半分半分、どちらもあり、さらに、このイエス・キリストが備えて下さった「義の衣」を着る事によって「義(無罪)」とされるのですね。
これこそが、キリストを着ることの真意であり、信仰者の正体なのですね。