永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

牛が遠慮無くゲップできる地球に 本当の循環サイクル

最近、「牛のゲップが地球温暖化の要因」だという話を耳にする機会があり、牛ではない人間の私が理解できずに困惑しています。

困惑しているのは、私だけではなく、犯人扱いされた牛を育てている酪農家の方々であるというのです。

そもそも、気候変動に関しては、化石燃料推進派と核燃料推進派の対立という側面があり、その真相は、双方にとって不都合な真実として解明されていくと指摘する人もいます。

20世紀に世界的な目まぐるしい産業転換がありました。

大国のコンクリート消費量は何と形容してよいか分からないほど莫大なものであり、それに伴う工業生産や発電などにも、直接環境に影響がある要因があるのは、火を見るよりも明らかです。

また、経済発展に伴い、食生活の変化もあり、世界的な食材の供給事情にも大きな影響を与えています。

その中で、高級な部類の牛を育てる比率が上がっていることは推察できますが、地球温暖化の容疑者として、名指しされるとは、夢にも考えなかったでしょうね。

その様な中、究極な自然サイクルを追求する人を何かの番組で特集されていました。

それは、水源に近い所で、自給自足で、ほぼ電気もない暮らしを究極の循環リサイクルで実現していました。

自分たちや動物の排泄物を囲い、そこから出るメタンガスを燃料として煮炊きをしていました。また、堆肥化を促進して、畑に活用していました。

郡部ならではの実現可能なアイデアですが、それが、必要なのであれば、そのような社会構造に転換していく必要もあるのかも知れません。

しかし、利便性や衛生的な側面を重視するならば、それも、両立できるようなアイデアも必要になりますね。

火力発電なども、完全燃焼に近いシステムや化学物質が飛散しないような工夫が必要です。

また、雨の前後に「ドブくさい」何かの物質が飛散していないかも検証して欲しいです。

気候や気象がおかしくなっていると考えている人は、私だけではないと考えています。

便利な世の中をできるだけ維持しつつ、可能な限りのクリーンな循環サイクルが実現される日を心待ちにしています。


参考資料

牛のゲップが温暖化の原因?! 私たち酪農家ができること

agri.mynavi.jp

ラオデキヤへの手紙は今の時代へのメッセージでもある 黙示録3:14-22

『14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」(黙示録3:14-22 新改訳2017)』

ラオデキヤとは、当時ギリシャに属していた小アジヤ地方にあった街です。今は、トルコ領です。

当時のラオデキヤは、金融や繊維(布・上衣)、製薬で潤っていたお金持ちの街でした。

紀元1世紀に存在していた地方教会ですが、1900年以降の背信の教会のひな型として取り上げられています。つまり、今の時代にも向けられた内容が記録されている部分もあるのです。

宛先は「ラオデキヤ」ですが、送り主は「アーメンである方」「確かで真実な証人」「神による創造の源である方」と記され、その意味は、真の神【主】、第二位格であるイエス・キリストご自身を表しています。

基本的に人間世界の背景に【主】の主権があること、約束を必ず守る真実な承認、創造主として被造世界に権威を持つ御方という存在を示している理由は、これから厳しい内容を語る準備でもあります。

ラオデキヤに関しては、賞賛の言葉はなく、【主】には受け容れ難い忌むべき霊的状態があったと推察されます。

「生ぬるく(16)」という表現は、この地域特有の水源の問題がありました。数キロ北にはこの街が水源とするヒエラポリスの温泉があり、地下水路を通る間に、水が生ぬるくなったようです。このような表現は、地元の人がより深く理解しやすいように、配慮されています。

その意味は、「信仰に無関心で、世情に妥協して、心からキリストを閉め出している状態」だと指摘されているのです。

例え、信仰告白しても、表面上だけで、救いに到達しないか、霊的成長が見られない状態なのです。

物質的な豊かさに気を奪われて、自分自身の霊的貧しさに気づいていない状態が「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である(17)」だと記されています。

この状態は、世界的に、人間が陥りやすい状況のように感じられます。

21世紀にも影響を与え続けているギリシャ文化などを交えて、人間の知恵のすばらしい面と、【主】に向き合った時に、いかに不十分であるかを示されているように感じられます。

今の時代に問われているのは、個人単位の信仰と救いであり、自立した信仰者の集いである地方教会であるかどうか? ではないでしょうか。

次回の日曜日は、この辺りを書いておこうと考えています。

動画 母性か親バカか? ママゴリラ


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母性を遺憾なく発揮する場面においては、子どもは可愛いと考えるのが一般的です。

その母性全開で、お客さま達に、生後間もない「子ゴリラ」を披露しています。

場所は、カナダ・アルバータ州カルガリーの動物園で撮影された動画だそうです。

どうやら、キスの雨を降らしているように見受けられます。

どこか人間みたいな行動です。

「キス」は、子連れのお客さんから学習した影響? なのかも知れません。

でも、野生なら、どのような行動をとるの化を考えると、防衛的なのだろうと想像します。

場所が保護環境下ですから、母ゴリラの大らかな振る舞い全開です。

まるで、「ほーら、私の可愛い子、見せてあげる」と聞こえてくるようです。

少々、手荒に見えるのは、野生の本能が垣間見えますね。

動物園の動物でも、ネグレクト(育児放棄)が起きるという話を聞く時代に、このような親子関係の動画を見ると、ほのぼのとした心持ちになります。

子離れするまで、猫かわいがり? して、あげて欲しいですね。

 

参考資料:
繁殖様式は胎生。妊娠期間は平均256日[3]。出産間隔は3 - 4年[3]。寿命は約40 - 50年で、53年の飼育記録がある[3]。2017年1月17日に死亡したアメリカ・オハイオ州のコロンバス動物園にいた雌のゴリラ「コロ」は60歳まで生きた。死亡時には子供が3頭、孫が16頭、曾孫が12頭、玄孫が3頭いた。また、彼女は人間に飼育されている環境下で誕生した初のゴリラでもあった[17]。
前肢を握り拳の状態にして地面を突くナックルウォーキングと呼ばれる四足歩行をする[18]。
発見以来、長年に渡って凶暴な動物であると誤解されてきたが、研究が進むと、交尾の時期を除けば実は温和で繊細な性質を持っていることが明らかになった[19]。かつてドラミングが戦いの宣言や挑発の手段と考えられていたが、山極寿一によれば、胸をたたいて自己主張し、衝突することなく互いに距離を取るための行動だという[20][21]。また、群れの間では多様な音声を用いたコミュニケーションを行い[22][23]、餌を食べる時などに鼻歌のような声を出しているのが確認されている。
人間を除けば 天敵は ヒョウだけである。

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もう一押しが違う世界の扉を開ける トーマス・エジソン

『完璧だと思っても、もう一押しすれば、おまけが手に入る。 トーマス・エジソン

エジソン」と検索すると、動画が表示されるようになりました。


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それを再生してみると、「水曜日のカンパネラ」の歌が踊り付で流れ出しました。

「踊る暇があったら発明してえ 歌う暇があったら発明して ライブのブッキング蹴って発明して そんな発明王にオレはなる… https://www.uta-net.com/song/315113/

などと歌うので、面白くて何回も聞いてしまいました。

歌や表現も一つの発明なのだと感じました。

これには、発明王と言われたエジソンもびっくりでしょうね。

今でいう所の「不登校」だったエジソンの発想は、時代をいくつも超えていて、学校教育になじめなかったのだろうと、今の時代からは推察できます。

でも、エジソンの最大の理解者が母親だったのは、時代を超えても、最終責任者は「母」というイメージでしょうか?

その母親が仰天した「人体実験」までして、自分の好奇心が高じていったというのは、周囲からは警戒される存在だったのでしょうね。

電話や蓄音機、白熱電球などは、あまりにも有名です。

その何れも、次世代へと置き換わりつつありますが、1800年代の後半に発明された技術だと考えると、3世紀にわたる人たちが、その発明にあやかってきたという歴史の事実を確認する事ができます。

冒頭の歌のように、「発明」に没頭していたであろうエジソンをイメージすると、その好奇心とバイタリティーは、人間の想像をはるかに超越していたのでしょうね。

『1912年にフォードがエジソンに業務提携を持ちかけ、提携自体はうまくいかなかったものの友情は続いた。フォードは1967年、エジソンは1969年に、それぞれ自動車殿堂入りをしている。』

との記事もあり、今の時代に不可欠な自動車の分野でも、その才能を発揮していたことを知ることができます。

今の時代でも、話題に出てくる「エジソン」は、本当に希有な存在だったのでしょうね。

 

トーマス・アルバ・エジソン(英: Thomas Alva Edison[1][注 1]、1847年2月11日 - 1931年10月18日)は、アメリカ合衆国の発明家、起業家。スポンサーのJPモルガン、秘書のサミュエル・インサル、そしてメロン財閥と、アメリカの電力系統を寡占した[2]。

ja.wikipedia.org

 

 

人間の魅力 機械的ではない暖かみの伝達 歌も上手い下手ではない

「AI(エーアイ)」が大活躍する時代です。

音楽の評価も「AI」がします。それは、人間の聞こえ方と、また違うものさしだと感じる部分もあります。

一つの競技と考えれば、そのルールの中で、点数を競うという理解はできます。

機械的に「100点」がとれればスゴいことですね。

機械に打ち込めば、正確に再現してくれる時代ですから、ほぼ同じ音が作れる時代です。この技術の進歩はスゴいと感心しています。

しかし、人間は、違う一面を感じるのではないでしょうか?

その人が演奏する姿、また、完璧な再現ではない旋律から伝わってくる何か? なのでしょうね。

元歌から、かけ離れていても、小さな子の歌は、聞いていれば可愛く、愛おしく感じられますね。

著しく原曲からかけ離れている演奏でも、それを「アジ」として感じられる能力を人間は備えているようです。

ただし、その許容範囲には、個人差が著しくありますよね。

「下手くそ」と辛辣な評価を下す人もいると思います。

それでも、表現の自由がありますから、そのような声を意に介さずに、表現者は演奏を続けるのです。

それは、「お金」のためでもなく「賞賛」されるためでもなく、「好きだから」、「やりたいからやる」という動機に支えられています。

そのように、継続していると、ファンもついてくるようです。

「継続はチカラ」を体現しているようです。

「実行」と「継続j」による積み重ねは、自分の土台をより強固にするように感じています。

表現を躊躇することなくできるようになるのではないでしょうか?

そのような、自信を積み重ねる修行も人生には必要ですね。

畏怖と恐怖の違い 箴言1:7

『7 【主】を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7 新改訳2017)』

人生の中で、怖いモノの代表は「地震、雷、火事、親父」と言われましたが、今では、「親父」は影を潜めて「おかみさん」がさらに元気になっている世の中なのかも知れません。

これは、「恐怖」を感じる対象ですね。

本質的には、親父やおかみさんは尊敬されている要素もあるように考えています。

でも、人間関係の中でも、尊敬(リスペクト)できる相手は、一人や二人はいるのではないでしょうか?

その人たちに対して、「畏怖の念」を抱いている部分もあるように思います。

人間には、「自立」と「自信」は必要ですし、「尊厳(プライド)」も等身大として大切にしたい要素です。

しかし、自分を過小評価したり、過大評価したりしたい誘惑がやってくる時があります。

その時に、上手くバランスをとらないと、その後の自分自身が、困ることがあります。

そもそも、人間は創造主である神【主】に造られた存在であるコトを自覚する必要があると私は信じています。

この部分は、信仰に関わる部分なので、様々な考え方があることを理解しているつもりです。

聖書をベースに考えると、創造主である神【主】を認識しないと、土台を失うことになりかねません。

その【主】とは、どのような存在なのかを理解しておくことが重要です。

【主】は、人間を愛して、空気も水も備え、自由意志も与えています。人間が、選択を誤り、道を踏み外しても、元の関係に戻る道を備えて確立して下さいました。その理由は、「愛」です。

その「愛」に、応答する信仰者には、神の子の権利を与え、永遠なる生命を確約されます。

しかし、その「愛」に背を向けて、応答しない人には、肉体的生命の終わりまで、チャンスを与えています。

それでも、拒否するのならば、やがての日に、審判が降ります。

【主】の原則は、「愛」「ゆるし」「永遠なる生命」の提供が先で、それを自由意志で拒否した人には、「審判」という順序なのです。

【主】は、すべての権限を有しておられる御方です。

まさに、最大級の「畏敬の念」を感じる存在なのです。

この【主】を「知り」、その「愛」に応答する事こそ、人生での最大級のイベントです。

それは、「審判」の恐怖から逃れるというよりも、愛による祝福が先なのですね。

私は、「愛」の提示を一人でも多くの人に、感じていただきたいと願っております。

気づいたら、即実行 ヒルティ

『真理と認めなば、いかに些細なりともすぐに行え。これが真実に至る唯一の道である。総てを知りて後にこれに従わんとする者は、決して始めることはない。 ヒルティ』

「知る」ことと「実行」する事が、人間にとって両輪のように大切なのだと教えられるフレーズです。

「知る」ことは第一歩として、重要なステップですが、そこで留まってしまうと、知識の堆積に囲まれて身動きが取りくくなってしまうかも知れません。

しかし、実行することによって、知った知識を確認することができますね。

実行すれば、直ちに理想にたどり着くわけではないので、そこに試行錯誤や葛藤が伴い、さらに、人間力が鍛えられるのです。

ヒルティは、「始める」ことの大切さを説いているように感じます。

人生のゴールは、誰にも予想できない結末が、用意されているようです。

しかし、ゴールから振り返り、正解のルートをやり直すことには、無理があります。

大抵のケースは、人生を振り返ると、曲がりくねった道だろうと想像します。

でも、それこそが、人生の醍醐味なのでしょうね。

この「醍醐」とは、「五味の第五。牛や羊の乳から精製した、最上の味のもの。仏の悟りや教えにもたとえる。(デジタル大辞泉小学館))」と説明されています。

つまり、特上の発酵食品、おそらくチーズではないでしょうか?

それと同列に、「仏の悟りや教えにもたとえる。」とありますから、人生の中で「知り」「実行」したことを積み重ね、多くの試行錯誤や葛藤を通過した体験こそ、究極の「発酵物」なのだと、私は考えています。

それは、人間が食物を効率よく消化して、必要な栄養分を吸収し、体外に出すものをまとめて排泄するという基本が、ある程度保たれていると、健康体を維持できるのです。

心や精神、そして、身体も、「知る」「実行」によって、バランスを保つことができるのでしょうね。

何事も「気づき」から、それをエネルギーに活用していきたいですね。

 

カール・ヒルティ(Carl Hilty、1833年2月28日 - 1909年10月12日)は、スイスの下院議員を務め、法学者、哲学者、著名な文筆家としても知られる。日本では『幸福論』、『眠られぬ夜のために』の著者として有名。
敬虔なキリスト教徒として、神、人間、生、死、愛などの主題を用いて、現代の預言者とも評されるほどの思想書を書き残した。また、そのようなテーマに深く踏み込んでいながらも、彼の著作には、非現実的な、空想的要素は含まれないという特徴がある。

ja.wikipedia.org

「幸福」(東亜堂書房)