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永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

究極の選択の判断 カルネアデスの板

カルネアデスの板という問いがあります。

たとえば、船が難破して船員が海に投げ出され、漂流しているときに、その二人のところに一枚の板きれが流れてきたとする。その板きれは一人がすがるのなら十分であるが、二人を支えるほどの浮力はない。この場合に、一方が他方を故意に追いやり、あるいは沈ませて板きれを確保し救助されたようなとき、助かった者は果たして仲間の死について責任を負うべきかどうか、という内容です。

つまり、自分が助かるという事は、目の前にいたもう一人の死を意味するという究極の選択肢をギリシャの哲学者カルネアデスが提示したのですね。

自分ならどうするか? 冷静な時に相手に譲ると、考えていても、鬼気迫る状況で同じ判断ができるとは必ずし言えない部分がありますね。

十字架にかけられたイエス・キリストも、このような究極の選択を迫られていました。

それまで「十字架につけろ」と叫んでいた群衆は、手のひらを返して「おまえがメシアであるなら、自分自身を助けてみろ、そうしたら信じてやってもいい」と訳のわからないことを言い出したのです。

しかし、「自分の肉体的生命の維持と現世での一時的栄誉が得られる事」よりも「すべての生を受けた人のために身代わりになる」という究極の目的を優先されたのです。

あるカウンセラーは、聖書の中で、イエス・キリストは十字架にかかる選択を常にしていたと言うことを分析して、イエス・キリストが自分のメシアであると受け入れたと証言しています。パリサイ派とのやりとりでも他とのやりとりでも当時の指導者的地位を得るために立ち回る方法はあっただろうと、そのカウンセラーは分析した。

ですから、イエス・キリストはこの世で肉体に宿ったのは、「十字架にかかって死に、墓に葬られ、三日目に甦る」ためだったということですね。

これを、一人一人が、自分のためだったと信じて受け入れるかどうか、そのために自由意志を示すか、今に時代に問われているのです。

イエス・キリストはメシアであると信じ受け入れるだけで、永遠の幸福にたどり着けるのです。