西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判があったようです。
個人の見解と視点が大切で、人間の数だけのバラエティーがあるので、実践的でないと感じれば、自分なりに採用しないか、アレンジするかで良いと考えますが、それぞれの立場からの発言は、それぞれの位置を語っているのかも知れませんね。
物との距離感は、愛着と考えることもできます。
その物の価値だけではなく、自分自身との距離感が、関係性を決めているのでは無いでしょうか?
その為の前提条件は、このフレーズで示唆されています。
それは、まず「知る」こと。
よく観察して、その性質や本質を知っていく必要があります。
イメージとして抱くのは「マニアック」な人々です。
カメラにしろ、クルマにしろ、「好き」な人にとっては、垂涎モノだそうです。
そこまでの愛着や執着を私は持ち合わせていないので、少し、距離のある感覚もあるのです。
しかし、まるで自分の分身であるかのような密着を見れば、「ラブラブ」の関係が見えるコトでしょうね。
そこには、パートナーでも入り込む隙が無いような関係性なのかも知れません。
物を大切にし、その物の恩恵を受けて、良好な関係を築いていくためには、「愛」が必要なのですね。
物ではなく、生き物相手ならなおさらです。物は、表現しませんが、生き物は表現をします。それも合わせて、知り、理解を深めていくことに「愛」の大切さがあるのではないでしょうか?
物にも、生き物にも、程よい加減の「愛」が理想ですね。
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』など。(中略)
デビッド・A・ディルワースは西田の作品分類を行った際、この著には触れていなかったが、西田幾多郎は、その著書【善の研究】にて―経験・現実・善と宗教―について触れており、その中で思想・意志・知的直観・純粋な経験に思いをはせることが最も深い形の経験と論じている。この著書の主テーマは‘すべての経験において調和を渇望する東洋の英知の真髄[9]に基づいている。