永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

信仰は、支えであり、葛藤でもある ヘブル11:33-40

『33 彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、34 火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。35 女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました。また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けました。36 また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、37 また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。38 この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。39 これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。40 神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。(ヘブル11:33-40 新改訳2017)』

宗教と政治の距離感については、様々な課題があり、どのような状態がベストなのかは、なかなか解決策が見出せないようです。

私は、以前から、宗教や政治と切り離した形で、一個人の自由意志による信仰として、提示をしているつもりです。キリスト教に限らず、人間は何らかの信仰を持っています。

そして、それは、信仰の対象が変わらなくても、本質の部分では変化をし続けていると考えています。

ヘブル書の11章は、信仰者が紹介されている箇所です。

しかし、この箇所の内容は、受け止める人の軸足の位置によっては、理解しがたいと推察します。

めぐみの時代におけるキリスト教信仰の土台は、【主】との約束(契約)です。

その内容は、最初の人間アダムが犯した「罪」を唯一無二の義人「イエス・キリスト」が全人類にかわって背負い、十字架に架かり全血を持って贖い、死に、墓に葬られ、三日目に復活をされたことを信じると、その十字架の贖いが、信仰者に適用されるというものです。

それは、基本的に肉体的死は回避できませんが、霊的死を回避し、永遠なる生命を確約されるのです。

つまり、肉体的死が永遠の不幸を決するのではなく、信仰者にとっては永遠の幸福の扉が開くことになるのですね。

その信仰者の先輩達には、それぞれに使命が与えられていました。
「国々を征服」「正しいことを行い」「約束のものを手に入れ」「獅子の口をふさぎ」「火の勢いを消し」「剣の刃を逃れ」「弱い者なのに強くされ」「戦いの勇士となり」「他国の陣営を敗走させた。」

「女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました。」

と紹介されている一方、

「ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受け」「ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験」「石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され」「羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。」「彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。」

「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。」

とも紹介されています。信仰者は、自分がイメージする良い結果を得るために使命を与えられている訳ではありません。自分の行き先が、永遠なる生命(永遠の幸福)である「いのちの保証」を確信して、それぞれに与えられている役割に生きているのですね。