永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

打ちひしがれた霊 箴言18:14

『人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊はだれが担えるだろう。(箴言18:14新改訳2017)』

人生には、病や苦しみが付き物です。

元気印の人の中には、病知らずという人も希にいるようですが、苦しみは何かとあると思います。

人によっては、多くの病を抱え、同時に、苦しみを体験している人もいます。

その様な人が、落ち込んで引きこもっているかと思いきや、中には活発に行動し、その人自身が病気のことを話さなければ、誰にも分からないという人もいます。

まさに、病苦を忍び、元気に生きる人生の達人ですね。

でも、病や苦しみに取り囲まれて、体力も経済力も削がれて、八方塞がりになる可能性は、誰にもあります。

もう一つ、「打ちひしがれた霊」と記されています。

打ちひしがれた状態は、周囲にも、はっきり分かるほどのダメージではないでしょうか?

『激しい打撃や精神的な苦痛などによってやる気を失ったり、またはがっかりしている、などの意味の表現。「打ち拉ぐ(うちひしぐ)」の受け身の表現だが、「打ち拉がれる」という受身の形で用いられることが多い。
実用日本語表現辞典』

病苦に取り囲まれたと思うと、四面楚歌の思いで、孤立無援だと感じてしまうのが一般的です。

それが信仰者を自認していても、絶対大丈夫だと開き直れるほどの人がどれ程いるでしょうか?

その様な人を聖書の中でイメージするなら、ヨブではないでしょうか?(ヨブ記2章参照)

彼は、義人でしたが、創造主である神がサタンに対して、許可を出したので、子たちを失い、自分自身も全身、腫れ物で覆われる苦しみを体験しました。

人間は、病の原因がわかれば、対処の方法が分かり、快方への道筋に希望が見えます。

しかし、ヨブのように五里霧中の中での病苦は、打ちひしがれた状態のように見えます。

その様な中でも、ヨブは創造主である神に対する信仰は揺らぎませんでした。

『そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21新改訳2017)』

それが、この聖句にあらわれています。

「見捨てられたから苦しみに遭う」のだと考える人もいれば、「見込まれたから苦しみに遭う」のだと考える人もいるのです。

それは、両極ですが、ほんの少しの差なのかも知れません。

「愛」「希望」「使命」を見失わずに生きるためには、「罪責感」から解放が一番課題ですね。