永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

信仰者は神の宮にされている 1コリント6:19-20

『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(1コリント6:19-20新共同訳)』

近くの社に日参するという人もいるとは思いますが、毎日、教会に行く熱心な人はどれ程いるでしょうね。

日曜日の礼拝と週の半ばの祈祷会に集うと、そのコミュニティでは熱心なカテゴリーに分類されることもあります。

地域教会における交わりも大切ですので、それぞれの生活のペースや肌に合ったコミュニティがあると良いですね。

信仰の温度差は、個人の中でもあり、また、他人と比較すればもっと大きくなることもあります。

波はあっても、信仰者に与えられている事実は、冒頭の聖句の通りです。

昔は、幕屋や神殿で、祭司のお世話になりながら、創造主である神との関係を維持してきました。

それが、メシアであるイエス・キリストの十字架の後に、変化したのです。

その変化は、順番に並べると、復活、昇天、そして、聖霊降臨です。

その時代の弟子達は、メシアであるイエス・キリストの復活後に遭い、本当に復活したことを確認し、オリブ山から昇天されるのを見届けました。その後に記されているのは、

『…突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒行伝2:1-6新共同訳)』

聖霊降臨(ペンテコステ)が起きたのです。それは、メシアであるイエス・キリストが昇天する時に予告していたことでした。

その後、聖霊に満たされて、各自が宣教へと命をかけて向かったのです。

メシアであるイエス・キリストが十字架上で死なれたこと、葬られたこと、復活されたことの福音の三要素を信じると信仰者として認められるのです。

今の時代はめぐみの時代です。

犠牲の動物を殺して献げる必要はありません。なぜならば、メシアであるイエス・キリストご自身が唯一無二の犠牲となって、全人類の罪科を贖って下さったからです。

そして、信仰者は信仰を告白する時に、その瞬間に、聖霊の内住が得られ、神の宮が出来上がるのです。

つまり、創造主である神の恵みと一人一人の信仰が出会う時に救いは完成するのです。

優秀な人だから優先されるということなどは一切ありません。それは、全人類に、一人ももれることなく用意されているからです。

どこに出向かなくても、信仰者が居る場所が、「神の宮」なのですね。

さらに、「自立した神の宮」が主の御名のもとに集う時、祝福を豊かに感じるコトができるのです。