「ことばは死んだと思ってもよみがえる」と、漫画家の山本直樹さんが言っていたのが、印象に残りました。
確かに、ことばは、音でも印刷された紙でも、人の目の前を通過しながら、どこかへと行ってしまいます。
でも、時代を経て、誰かが、そのことばを発すると、それにまつわる様々なモノが引きずり出されるのですね。
ことばは、まるで生き物のように、身を潜めるけれども、生き続ける。
そして、時代を経ても、継がれて、また、意味を加えながら、その使命を果たして行くのではないだろうかと考えます。
「はじめに言あり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言ははじめに神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。…されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる権をあたえ給えり。…言は肉体となりて我らの中に宿りたまえり、我らその栄光を見たり、実に父の独子の栄光にして、恩恵と真理とにて満てり。(ヨハネ1:1-3,12,14)」
御子イエス・キリストは、御父のことばとして、肉体に宿り、十字架に架かって贖いを完成し、それを信じる人には、神の子としての権利を与えられるのです。
つまり、三位一体の神の唯一の御子と共に養子として迎えてもらえるのですね。
ことばは、肉体となって、一度は死んだけれども、復活し、信じる人を養子の兄弟としてもらえるのですね。
神のことばは、すでによみがえっているのですね。