永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

人間社会は、誰かがウソをつき、誰かを裏切る 悲しい現実

「息を吐くように嘘(ウソ)をつく人」が増えたと感じている人も多いと思います。

「ウソ」は、最初につき始めたら、それを覆い隠すように、ウソを重ねて、ウソを上塗りしなくては体裁が保てなくなってしまいます。

また、「今だけ」「金だけ」「自分だけ」と考えていると、他人のことを一切考えない、利己主義に陥りかねません。

これが大きな影響を及ぼしているようにも感じます。

霊感商法架空請求詐欺の横行も、このような寂しい時代背景を反映しているようです。

「組織」のせいにしたり、組織を守るために「個人」のせいにしたり、酷いケースは、無実の人に「罪」を着せることもアリ、なんとも悲しい現実に、怒りを覚えます。

薬害では誰も責任をとらないように、巧妙な仕掛けをしてあったりします。

「ワクチンを打てば感染しない」
  ↓
「ワクチンを打てば重症化しない」
  ↓
「ワクチンを打てば収束する」

※これらは、事実と異なりました。打てば打つほど感染が拡大している状況を冷静に分析する必要がありますね。

風化させないためにココに記しておきます。

政治家も行政も責任を明確にせず、被害者が置き去りにされるという状況は、昨日今日にはじまったことではありません。

これからますます、クスリによる健康被害や食品(添加物や遺伝子組み換え技術)による影響が色濃くなりそうです。

利便性や効率を求めれば、安全性が置き去りにされるというのならば、いっその事、不便な方が良いのかも知れません。

でも、その選択肢さえ、示されなければ、そのリスクを回避する手立てもなくなります。

人間が、人間性を放棄しているように感じてしまいます。

それは、「良心」が置き去りにされているように感じてならないのです。

「良心の呵責」という言葉は、死語になったのでしょうか?

でも、世間の大半の人には、「良心的」な面が見られますので、一部の偏った価値観が、振り子現象で、是正されていくことを期待したいと考えています。

本当の豊かさとは何か? 黙示録3:17-18 ラオデキヤへの手紙

『17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。(黙示録3:17-18 新改訳2017)』

目先のお金に目を眩まされている可能性を指摘されています。

ラオデキヤの街は、金融や繊維(布・上衣)、製薬で潤っていました。

ですから、見かけはお金持ちで立派な紳士・淑女が集う教会だったことが窺えます。

黒羊の繊維で織りなした上衣は、非常に高価で、富の象徴の一つだったようです。今の時代でいう所の「ハイブランド」ですね。

外見は、ステキだったのです。今の時代も、その様な傾向を感じます。

ハイブランドの衣装に宝飾品、さらに、高級車で、ビジネスの鎧ができるのです。もちろん、外見も大切なのですが、それよりも大切な要素があります。

【主】は、ラオデキヤの人々の内面を見ておられました。

それが、それぞれの霊的貧しさで「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である(17)」と記されています。

短い文章の中に、巧みな表現が為されています。

それは、ラオデキヤの産業である金融、繊維、そして、製薬に、なぞらえられています。

それは、内面、つまり、「霊的状態」に対する軌道修正の提案です。

金融で潤っている富の使い方であり、霊的な裸を覆う衣についてであったり、霊的洞察力を磨くために必要な目薬などです。

「金」に関しては、神の義であり神の栄光を表す本物の信仰を示されています。

霊的状態を改善するためには、義の衣が必須です。この代価は、十字架上でメシアであるイエス・キリストがすでに支払い済みです。その値で、信仰を持って、感謝をして受け取ればよいのです。

さらに、「目薬」の話題を出しながら、霊的洞察力について、表現されています。

この地には、ギリシャの名医神を祭った「エクスピアス神殿」があり、そのシンボルは、今日のWHOで採用されている、杖に蛇が巻き付いてのぼっているものです。当時の目薬は、軟膏だったようですが、それは、この地の名物でもあったのです。乾燥して、砂埃が舞い上がる土地柄、目薬が重宝されたといわれています。

しかし、物理的な視力回復ではなく、ここでのオススメは霊的洞察力です。

そのために、表面上の外見への注目から、霊的な内面を見るようにという「悔い改めによる転身」が為されているのです。

このオススメは、今の時代にも共有される内容です。

「誰がどうか」ではなく、自分自身についての「霊的洞察」の必要性を指摘されているのですね。

動画 お買い物にもエンターテインメントが大切かも


www.youtube.com

お買い物は、食料や日用品を補充するのがメインなのですが、人との接点でもあります。

この動画では、今の時代には、切り捨てられているようなお店のサービスの「エンターテインメント要素」を感じます。

この場所に、事情を知らない武装保安官がいないことを願います。

おばあさんは、この店員さんと日常的に対話(コミュニケーション)をしているのですね。

それを店員は理解した上で、手を変え品を変えて、接客に勤しんでいる様子が窺えます。

「スローレジ」という発想も実現されていると聞きますが、会計をする時に時間をかけて、店員と会話をできるレーンを設けているお店もあるようです。

この動画にあるような要素を加味した、顧客サービスなのでしょうね。

「セルフレジ」「セミルフレジ」が主流になりつつある時代です。

店ごとに、レジスターの種類が違うので、戸惑う顧客を店員や後ろに並んでいる客が「イライラ」しながら見ているという、何とも「ギスギス」とした世の中だというイメージがあります。

「利益にならないものはすべてムダ(ロス)」という発想が根底にあるようです。

でも、人間同士がコミュニケーションをする場所でもあるので、何らかのエンターテインメントを顧客サービスとして考えて欲しいですね。

 

スローレジでゆっくり買い物
愛知県名古屋市にある商業施設にあるスーパーに、「サポートレジ」という名前のスローレジが導入されました。
スローレジとは、時間をかけて会計をしても良い有人レジのこと。混雑時だと会計であせってしまい、落ち着いて買い物ができないという声を受けて始まったサービスです。
特に高齢者は、小銭やポイントカードを出すのに手間取ったり認知症のために時間がかかったりと、会計をすることに負担を感じていることも。そうしたときに、レジの店員がサポートしながらゆっくり会計できるのが特徴です。

e-nursingcare.com

 

 

愛することと知ること 灰谷健次郎

『あなたの知らないところにいろいろな人生がある。あなたの人生がかけがえのないようにあなたの知らない人生もまたかけがえがない。人を愛するということは知らない人生を知るということだ。 灰谷健次郎

人生経験を補完するためには、読書が一番だと言われています。

特に、自伝や小説などは、おそらく自分には味わえないだろうという世界観が展開されていることが多いからです。

また、それと並んで、人の話を聞かせてもらう機会があると、さらによいと感じています。

その中でも、「問わず語り」の部分が、最も、聞き手にとっては「未知のゾーン」でしょうね。

傾聴やカウンセリングをしていると、いろいろな人の歴史を、その人の言葉で聞かせてもらい、また、背景を含めて補完をしていくと、その人ならではの貴重な人生が浮かび上がってきます。

人間は、同じような暮らしをしているようで、その実、分類不可能な多種多様な人生があるのです。

それを全部知ることはできませんが、多種多様な人生があるのを知っていること、その一端を垣間見ていることが、自分の人生を省みる貴重な情報になります。

そして、冒頭のフレーズのように、「人を愛するということは知らない人生を知るということ」ときされているように、愛することは、あるがままの相手を知っていくことにあるのではないか? と示されているように感じます。

何かを知ることは、まず、それが、善いことか? 悪いことか? というフィルターから入ることが、圧倒的に多いと感じます。

しかし、「掛け値なしに、実体を知ることから入った方がスムーズだ」ということは、自分自身の経験からも明らかです。

それは、現在位置を知ることで、自分自身が目標とする位置と、どれくらいズレているのかを知ることと似ていると考えています。ナビゲーションシステムの最大利用価値は、そこにあります。

人生はかけがえのないものであることを知り、それは、十人十色であるということです。

さらには、人を愛すると言うことは、ありのままのその人を知り、理解していくことにあるのですね。

知って理解を深め、お互いにより良い関係性を探る事ができれば、良好な将来を共有できる希望はあります。

 

灰谷 健次郎(はいたに けんじろう、1934年(昭和9年)10月31日 - 2006年(平成18年)11月23日)は、日本の児童文学作家。

ja.wikipedia.org

「ひとりぼっちの動物園」(あかね書房)
(第27回小学館文学賞

 

車社会を取り巻く厚い雲

本当にガソリン車はなくなるのだろうか?

という「?」は、消えないままです。

2030年に販売される新車は「EV(電気自動車)」になる。

などというニュースも流れていますが、予定は未定、どうなるかを見守ることになるでしょうね。

EV車はごく近距離は、電池の持ちもよいと聞きますが、エアコンをかけたりするとバッテリー残量が非常に気になるという意見も耳にします。

現段階で、電気自動車(EV車)の購入をためらう人も多いといいます。

その理由は、充電スポットの数が少ないこと、これは、サービスエリアも含めて最小限しかない現状にリスクを感じているらしい。

また、電気代の高騰という理由もある。円安によるエネルギー高騰をはじめ、安くなる要素を感じず、供給自体にも不安を感じる。

さらに、急速充電器が高すぎるという理由も挙げられている。同時にバッテリーの劣化も気になるのではないでしょうか?

大半の理由は、電気に関することのようです。

つまり、ガソリン車でいう所の「ガス欠」、電気自動車の場合は「電欠」の時はどうなるのだろう?

ガス欠の場合は、3L~5Lほどのガソリンを持ってレスキューに来てもらう方法がありましたが、電欠の場合、そのレスキューの方法が提示されていないのです。

つまり、充電できないリスクをクリアできないのが現状です。

理想的には、余剰電力をクルマに貯めておくことができれば、ベストですが、それも、バッテリー容量が限られています。

これからは、発電に関する課題も、現実化してくることでしょうね。

クリーンエネルギーと言われる太陽光パネルも、耐用年数を迎えたり、故障が起きたりした時の応急処置やリカバリーを考えると、クリアーできていない課題も浮かび上がって来ます。

今しばらくは、環境性能や燃費が良いガソリン車やディーゼル車の時代が続くのではないでしょうか?

ほんとうの大丈夫 「平安」は必要 箴言1:32

『32 浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。(箴言1:32 新改訳2017)』

「大丈夫」という言葉は、発する人によって重みが違うように感じられます。

「大丈夫」を乱発する人は、本当の意味では「大丈夫」ではないのかも知れません。

あの人に「大丈夫」と言ってもらえると安心だということも、あるように感じています。

自分の経緯を考えてみると、自分に「大丈夫」だと言い聞かせている期間には、多く口にしていた印象があります。主に、自分自身に対してですが…。

冒頭の聖句では、「大丈夫」の真逆の表現になっています。

「愚かな者の安心は自分を滅ぼす」とは、本当は「大丈夫」ではないと感じていても、何の配慮もせずに、むやみやたらに突き進むというイメージです。

この「安心」は、自分を滅ぼすほどのキケンを内包しています。

「浅はかな者の背信は自分を殺し」とは、何に対して背を向けるかです。

その決断をすること自体が、浅はかだと指摘されているのです。

ほんとうの大丈夫は、「大丈夫」の源を知り、そこに立ち返ることです。

目先の表面的な「安心」に心動かされることなく、「平安の源」を目指すことです。

それは、自分を殺したり、自分を滅ぼす方向性の選択に背を向ける転身をすることです。

つまり、創造主である神【主】に向き直り、その「愛」を祝福として受け取ることです。

その「愛」に、もれなく「平安」がついてくるのです。

光に背を向けると自分の影を見続けることになります。

光に向き直れば、自分の影を見る必要はありません。

祝福の光に照らされながら、大丈夫人生を歩む事ができるのです。

人生の山坂に共に居て下さる存在があれば、心持ちも違いますよね。「大丈夫」だと思って過ごす事ができそうです。

<ダビデの賛歌。> 詩篇23:1-6
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。

 

誰でも会えば善い人に見える 夏目漱石

『鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。 夏目漱石

「あいさつもするし、いい人でしたよ」というのが、何かの事件で逮捕された人への周囲で生活していた人たちの評価です。

人間は、一般的に「普通」と言うよりも、「普通を装っている」のかも知れませんね。

ある経営者は、「あの人は、私はイヤでもないけれど、経営者の中では嫌われているね」ということをポロッと言っていたのが印象的でした。

また、「人間は、基本的に会えばイイ人」という印象なのだそうです。

でも、「悪人顔」というイメージもあり、本人の責任ではありませんが、イメージ先行という状態が起きることもあります。

悪人顔とされる特徴は「目がつり上がっている」「眉間にシワが寄っている」「目が笑っていない」
「クールに見える」「顔が歪んでいる」「目つきが悪い」「口角が下がっている」などが指摘されます。

自分で、この特徴を回避できると印象は変わるのかも知れませんね。

人間のほとんどの要素は「善人」ではあるけれど、何かをきっかけに「悪人」が登場するというパターンですね。

これは、外見ではなく、本性の部分ですね。

そうならざるを得ない事情がその様にさせるのでしょうか?

「君子豹変す」という、あれですね。

さっきまで、雲一つ無いような快晴だったのに、「一天にわかにかき曇り」、嵐が到来するというイメージです。

できるだけ良好な人間関係を保ちたいですから、お互いに気をつけたいものです。

自分の中の「悪人」を覆い隠せるような、心のゆとりを大切にしたいと考えています。

 

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の教師・小説家・評論家・英文学者・俳人。本名は夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪の一人。
代表作は『吾輩は猫である』『坊つちやん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。

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「こころ」(新潮社)