永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

人間vs【主】 詩篇33:11-12 エペソ2:2 反ユダヤ主義が渦巻いても

『11 【主】のはかられることはとこしえに立ちみこころの計画は代々に続く。12 幸いなことよ【主】を自らの神とする国は。神がご自分のゆずりとして選ばれた民は。(詩篇33:11-12新改訳2017)』

創造主である神=【主】が、聖書の中で示しているのは、人類の救済です。

それは、かつての輝く星で、「暁の子」と呼ばれて【主】の上に立とうとして堕とされたサタンとの駆け引きでもあります。

つまり、【主】とサタンの間に、人間が生かされている状況です。

これには、それぞれの目的があります。

サタンは、人間を騙して、「罪」に陥れることによって、自分の道連れを増やそうとしています。その理由は、【主】には堕落した天使に対する救済計画はなく、サタンの行く先は「永遠の火の池」と定められているからです。

サタンは、創世記3:15で示された原福音を理解していて、約束の「女の子孫」を誕生させないように策を弄しました。その一つは、アブラムが妻サラを「妹」だと言い、当時のファラオに娶られそうになりました。しかし、【主】の保護で事なきを得ました。

その他にも、サタンの策略は多く、続きました。

エスが誕生したとの知らせを耳にしたヘロデ王は、保身のために、イエスの同年代のユダヤ男児の抹殺を命じました。これも、策略の一つです。

さらに、イエスが公生涯に入ると、すぐさま荒野に連れ出し、最大級の誘惑をしました。

そして、サタンは民衆を扇動して死刑を確定させました。「十字架につけろ」と叫ばせましたが、十字架上で死ぬことを回避するために「十字架から降りろ」と叫ばせました。シナリオが狂った事による大いなる矛盾です。

「女の子孫(メシアであるイエス・キリスト)」がサタンの頭を砕くのは、過越の祭の犠牲としてイエスご自身が、全人類の「罪」を背負い、贖いが完成した段階で確定です。サタンは力の限り、【主】の計画を阻止しようとしましたが、当然のことながら【主】の人類救済は整いました。

ユダヤ人(イスラエル)に対する迫害はいつの時代でもあり、今でも、反ユダヤ主義として、あちらこちらで渦巻いています。それは、【主】がユダヤ人を通して、タイムスケジュールを進められていることをサタンが理解しているからです。「ユダヤ人の全滅計画」はサタンの最大の願望です。

そうであっても、ユダヤ人は全滅させられることなく「【主】のみこころの計画」は、【主】のタイミングで成し遂げられるのです。

『2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。(エペソ2:2新改訳2017)』

それでも、なお「空中の権威を持つ支配者」として、サタンの活動は続いています。

その理由は、永遠の火の池への道連れを一人でも多く獲得するためです。

人間は、その間で選択を迫られています。人間が自分の自由意志で、【主】の愛を信仰で受け取り、神の子となり永遠の生命を持つに至ることを【主】は心待ちにしています。

動画 ご時世ならではの恐竜になれるレース


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正体不明の感染症が増えてきたあたりに、この恐竜の着ぐるみが表舞台に登場してきたイメージがあります。

空港での再会シーンだったり、防護服の代わりに使われていた記憶があります。

この動画では、競馬のレーンを使った徒競走です。

同じスタイルというのが、デザイン的には気になる所ですが、密を避けると言う点では、工夫された感があります。

ただ、心配なのが酸欠です。

網になっているようなので、窒息するようなことはないと思いますが、少し気になります。

足がもつれて転倒したり、風を受けて形が変わってしまったり、競技者は体力や工夫を求められるようです。

でも、見ている側は、楽しめる競技ですね。

この恐竜は、良いスニーカーを履いています(笑い)

まだまだの自己制御 ヒルティ

『何かにつけて憤怒をいだくうちは、自己を制御していない。 ヒルティ』

一日に何回、怒りを感じるでしょうか?

あるアンケート調査によると一日に3回~5回怒りを感じるといいます。

news.mynavi.jp

その原因の第1位は「道路渋滞」(163人)。第2位は「順番待ちの行列」(147人)、第3位は「歩きタバコ」(143人)などとなっています。

心当たりがあるという人もいるかも知れませんね。

車を運転していると、渋滞に巻き込まれたり、挙動不審な車にイライラしたりなどと、結構ありますね。

そのような心理状態は、自己を制御していないのだとヒルティは指摘しています。

自分自身の器量が影響しているのでしょうね。

どうしたら自己制御できるのでしょうか?

多分、修行をすれば、怒りの回数は減らせる可能性はあります。

しかし、その逆を選択した方が、自分を責める回数が減りそうです。

それは、「自分が自己制御できていないことを受容すること」です。

「自己制御できないとダメ」という縛りから抜け出すのです。

そうすると、怒りの質も変化していくでしょうね。

「怒り」「自分を責める」「怒り」「自分を責める」のくり返しは、怒りのエネルギーが増幅する、正に悪循環です。

「怒り」「受容」「怒り」「受容」の方が、クールダウンができる可能性が高まりそうです。

完全制御や完璧を目指すよりも、現実的な対処法を採用する方が良いと考えています。

日本文化は不思議 意外と新しいものが浸透しやすい

会話をしていて気になる事があります。

日本語でありながら、カタカナ語和製英語を使わなくては、表現できなくなっているのです。

スマホやコンピューターが普及してきたこともあり、ますます、その傾向が高くなっているように感じます。

日本は鎖国していた時代がありました。それでも、限定された国とのお付き合いがあったり、抜け荷の取引などで、海外との接点もあったのっだろうと理解しています。

人間の好奇心は、異文化の魅力が入口になるのではないでしょうか?

特に女性ならば、日本にはない、布地とか、宝飾品の類いは、それを目の前に出されると、たちまち惹き付けられてしまうのでしょうね。

また、近年では、住環境の快適さやおしゃれなアイテムも魅力的な一つです。

オール電化や気密住宅など、洋装の住宅が爆発的に普及して、日本の和風伝統工法がほとんど絶滅危惧種になろうとしています。

まあ、快適さが実感されるうちは、そちらへの流れは変わらないでしょうね。

どのようなスタイルの住宅でも、メリットばかりではなく、デメリットもあります。

とにかく、住んでみなければ分かりませんから、住んでみてどう感じていくか? ですね。

一時期、大流行した床暖房も、使ってみての意見が分かれてくるようです。

ガスなどの温水式や、電熱線ヒーター式がありますが、エネルギーコストやメンテ費用、さらに使用感で、だんだん使わなくなる人も出てくると聞くことがあります。

そもそも、日本が太平洋戦争に敗戦した直後から、欧米化の津波が押し寄せ、日本の言語や文化は、スミの方に押しやられているように感じます。

日本人は、人当たりが柔らかく、相手のオススメを受け入れやすいのかも知れません。

しかし、後になって、エネルギーコストが高いことに気づいたり、使い勝手が違うことに気づいたりするのです。

そのように感じたなら、そこからが知恵の絞りどころでは無いでしょうか?

ベストミックスを目指すための工夫をする為に、叡知を結集する必要もありますね。

言葉の壁は、インターネットがある限り、翻訳(DeepLの翻訳機能はスゴい!)も、辞書機能も、接続料で活用できる時代です。

言葉遣いに葛藤しながら、日本人同士、身振り手振りで、コミュニケーションに励むことにしましょうか。

争う人 箴言16:28 マタイ5:9

『28 ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(箴言16:28新改訳2017)』

「ねじれ者」と記されているのは辛辣ですが、周囲を見回せば、思い当たる存在もあることでしょう。

自分が気に入らないと怒り狂うタイプの人ですね。

ちゃぶ台をひっくり返したり、自分の怒りを増幅させるような、理解不能な行動をします。

それは、火に油を注ぐような行為であり、その場を収めて平和にするという発想は微塵も感じられません。

世界の紛争でも、この類いの話をよく聞きます。

どうやら、戦争が拡大し、長引けば長引くほど儲かる人たちがいるのが理由のようです。その人たちが生き延びるために必要な輸血は「WAR(戦争)」なのだそうです。

それを聞くと情けなくて、やるせない気持ちになります。

利害関係の整理は、日常的に大切です。しかし、「無用の争い」は避けたいものです。

「陰口をたたく者」と出てくるのは、イメージしやすい行動です。

相手に直接言えないこと、あるいは、自分の気持ちの整理がつかない、自分が相手よりも劣っているという劣等感を抱えているケースなど考えられます。

コンプレックスが要因で、相手への誹謗中傷は、最悪の結果をもたらします。

「あること無いこと」ではなく、「無いこと無いこと」を並べ立ててしまうことがあるからです。

それが、度重なると、関係は悪くなります。それまでの付き合いは、できなくなります。

気が小さい人の「一つの性質」かも知れません。

逆に「相手を陰で誉める」ことは、良好な関係への第一歩です。

それが、本人の耳に入ると、感情的にも、より深い良好な関係を築いていく可能性が広がるからです。

それこそ、「争う人」とは真逆な「平和をつくる者」への第一歩なのでしょうね。

『9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9新改訳2017)』

 

労苦・労働の意味 カント

『人間は安楽に満足して生きたいと思うが、自然は人間が安楽と無為の満足に甘んじさせず、労苦や労働に打ち克つ手段の発見に知恵をしぼらせようとして、労苦や労働のなかに人間をほうりこむ。 カント』

パスカルによると、人間はいつも何かを考える生き物だそうです。

問題は何を考えているのか? ですね。

「快」「楽」をイメージしながら、現実は「金」「苦」がグルグルしている人もいいるのかも知れませんね。

人は、どうして「労働を苦役」だと感じるようになったのでしょうか?

それは、エデンの園から追放された後ではないかと言われています。

ただし、労働の本質を理解している人は喜びや充実感を伴って「ハタラク(周囲の人を楽にさせる)」事ができるのです。それは、実利実益に適う方向性です。

それが、不明確だと「はたら苦」に打ちのめされてしまいますね。怠惰は放蕩、果ては破滅への道になりかねません。

私は、人間は創造主である神によって造られた存在だと信じる立場ですが、その歴史を見ると、冒頭のフレーズの流れのようになっています。

最初の人間が置かれたエデンの園は、すべてが揃い、人間の役割はあったようですが、それには、「苦役」が伴わず、「喜び」を伴うものだったようです。

しかし、エデンの園を追放された後は、「額に汗して働く」ような「苦役」が日常になっていったというのです。

人間は、まるで、炎に近寄っていく蝶蝶のように、厳しい方に引き寄せられていくような、選択をしてしまいやすいです。

でも、成長のため、また、活路の開いていくためには、自分が取り組む課題が分かりやすい方が、自分なりに解決を見出す近道になりそうです。

それをどのように見据えて、どのように取り組むかが、人生の宿題なのでしょうね。

「私は、神にロックオンされているようだ」と感想を漏らした知人がいました。

それに対して「ロックオンされているとは、神に愛されていますね。」と返信しました。

平安や祝福、そして、繁栄を御利益だと考えて、有難く頂戴することも大切です。

しかし、最も大切なことは、自分にとっては、試練・困難だと感じるものも、神からのプレゼントという認識です。

その中に、隠されている祝福やめぐみを味わって行く人生も刺激に満ちているのですからね。

※試練・困難の性質によっては、避けた方が良いものもあります。これはご用心です。自分の器量に合わせての対応が肝要だと心得ています。

コミュニケーションは試行錯誤

「失敗の連続の人生」というと、受け止め方によっては、気が重くなってしまうのかも知れません。

しかし、現実は、ケガをしたり、人によっては骨を折ったりして、痛い経験を積み重ねているのです。

また、コミュニケーションには、自分ではコントロールできない要素が出てきます。

それは、相手の気持ちと受け止め方です。他人格ですから、常に、温度差はあって当然なのです。

そして、親密度にも段階があります。

「互いに親友と公言する関係」「親友と思っている間柄」「親しい知人」「単なる知人」などです。

これを意識していないと、失敗しやすいです。

「共感共有」「受容」「許容」「警戒」などの気持ちのコントロールも関係性を維持するためには大切だからです。

時には、その関係性の見直しも必要です。

どのようなテーマにおいて、どのように付き合うかをお互い承知していなければ、長続きしないばかりか、はじまりもしないのです。

また、すれ違う人とのコミュニケーションにも課題があります。

これには、観察力も必要です。

相手のニーズは何か?

自分がそのように関われるのか?

などの視点です。

これは、「探り探り」ですが、経験上は、必要最低限のアプローチにした方が良いように思います。

ただ、救急対応などもありますので、臨機応変さが求められますね。

さらに、その試行錯誤をエンジョイできるかどうかという領域もあると考えています。

それは、失敗も成功も含めての話です。

でも、それらが経験上の財産になるのですから、取り組んでみる価値があるのではないでしょうか?