永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

メディアリテラシー 口コミの良い悪いは自分でウラを取る

ひと昔前なら「陰謀論」、ココ数年なら「フェイクニュース」という言葉が一般的になりました。

多くの人は「この人は本当のことを言っていないな!」と理解しているように感じます。

誰かの利益を守るために、一方的な情報を流し続ければ、「おかしい」と感じる人が増えますね。

日本でも、「大本営発表」というものがありました。

真実とはかけ離れた内容をメディアに伝えさせ続けたのです。

それは、昔も今も変わらないように感じている人も多くなっています。

陰謀論」という言葉を使うようになったのは、真実の一部が暴露されたために、都合の悪い勢力が、信じないでと聴衆に懇願したような構図ですね。

基本的にマスコミは、経済的なつながりがある集団と利害関係を共有している要素があるので、真実を伝えるという所から、かなり距離がある情報を流している傾向があるように感じます。

最近は、インターネットの急速な普及によって、玉石混交の情報の洪水が発生しています。

この時代には、やはり、自分で調べて、考えて、推理していくという能力が必要不可欠だと感じます。

それをメディアリテラシーというのです。

良いことを聞いたなと思っても、それを何かで自分なりに調べてみるという習慣化が大切ですね。

誰々さんが言っていたとか、公共放送が言っていたとかとしても、どのような情報が出回っているのかを検討していく必要性を感じています。

「テレビは、嘘はつかないだろう」と言っていた人もいましたが、現実的には、宣伝だらけで真実やモラルの欠如だと感じてしまう情報が流布されています。

果たして、自分が何を信じているのかを問われ、試されているように感じています。

程よい自信を強く持つ 箴言14:16

『知恵のある者は慎重で、悪を避けるが、愚かな者は怒りやすく、自信が強い。(箴言14:16新改訳2017)』

「良い加減」というのが難しく感じられるのはどうしてでしょうか?

それは、人が十人十色で、加減の受け止め方も十人十色で、計りかねることがあるからと考えています。

「良い加減」を別のことばで置き換えるならば「程良さ」なのでしょうね。

この程良さを自分の中で把握していく必要があります。

人間が自立して生きて行くためには、「自信」が必要不可欠です。

これを過大評価しても過小評価しても、そのギャップに苦しむ結果になります。

適正評価が非常に難しいテーマでもあります。

精神的自立ができていない人は、自信が持てないことがあります。

それでも、自信があるように見せかけようとして、無理をして振る舞ったとしても空回りしてしまいます。

自分を知り、自分の状態を認めることは非常に勇気を要することですが、それが冷静にできる人こそ、自信がある人なのでしょうね。

自分だけが良ければ良いとする自分勝手な自信から、相手も自分の大丈夫な範囲が分かる冷静な自信との差は明らかです。

自分勝手な自信の持ち主は愚かだと指摘されています。

これは、実体とのギャップが大きすぎる破滅への道ですね。

一方、慎重で冷静な人が知恵がある人と評され、悪を避けると記されています。

ビジネスの現場でも、「ウソはダメだけど、ホラは吹かないと相手にされない」などとも聞きます。

どれだけ話を盛っているのかは、大抵の人は感じているでしょうから、等身大を意識して、自分の意欲を正直にアピールすることが大切なのでしょうね。

身に付く最高の教育は? ディズレイリ

『いかなる教育も逆境に及ぶことなし。 ディズレイリ』

教育の大切さは、理解している人が多いイメージですが、その方法論については、様々な意見があることも事実です。

費用対効果や個人差による相性などを考える必要があるからです。

どうして、その様になるかというと、あらゆる可能性に満ちている子どもの適性を客観的に知る基準がないからではないでしょうか?

また、保護者の願望や周囲の経済的環境の影響も少なくないと思います。

このようなことから、ミスマッチが起きて、その歪みに当事者である子どもが苦しむという問題も数多く見受けられます。

たとえ、経済的にも環境的にも最高峰の教育を得たとしても、その成果はどれほどなのでしょうか?

確かに、社会的には大きなアドバンテージになる要素はあります。

それを生かすことができればですが…。


スタート地点に差があっても、人間は天寿を全うするために、あらゆる道を通りながら旅を続けます。

その中で、考えるコトが、「学生時代にもっと勉強しておけば良かった」があげられます。

でも、人生のどこかで、必要な勉強をしていく必要がありますから、せめて自分にしっくりくる勉強の方法を会得しておきたいですね。

聴覚優位の人や視覚優位の人などのタイプを自分なりに把握していると、勉強の効率を上げられますね。


また、誰でも、大なり小なり、人生の中で直面するのが「逆境」です。

このフレーズでは、この「逆境」こそが、最高の教育ではないかという指摘です。

人間は、体験や経験を通じて、大人への階段を上がっていくのですが、天寿を全うするその日まで、その階段を上り続けるという、その途上で遭遇するのです。

「逆境」と向き合い、その次の道を模索するために試行錯誤することこそ、究極の実践で、その行動に結びつく調査や思考こそ最高の教育の賜物なのだろうと、私は理解しています。

目の前に、「逆境」というカベが出現した時に、そのカベを壊すか、進む方向を変えるか、飛び越えるか、それともトンネルを掘るか、などの回避策が思い浮かびます。

でも、大切なのは「どうしてその選択肢を採用するのか?」という調査と思考に掛かっているのですね。

キーワードを明確にするメリット

「今ココ」を最大限に生かす方法の一つのヒントです。

それは、「キーワードを明確にする」です。

その理由は、マインドや脳内でのイメージの乱立によるグルグル堂々巡りを回避するためです。

テーマが「食事」だとすると、朝食なのか夕食なのかなど、具体的に絞り込みをしていくことができます。

最近のマイブームは、それらを自分が課題だと感じている事毎に、カードやメモでつくっていく方法でしています。それぞれ得意なもので大丈夫です。

不思議なことに、漠然と混沌としていたイメージが、キーワードで整理されると、周囲からもたらされる情報から、関連情報を発見し、読み込む範囲も絞り込まれ、より明確になっていくのです。

キーワードに対して、自分のセンサーが敏感になる要素ではないかと考えています。

その作業の中で感じている大きなハードルは、キーワード化や図形化できないイメージです。

それでも、キーワード化できたモノから、クリアしていくと状況も変化します。

また、漠然と混沌としているという状況も、否定的に考える必要性を感じていません。

それは、その次のステップのための準備段階ですから、大切にしたい状況だと考えています。

それらは、そのままであれば優先順位が後になるだけですし、途中から具体的なキーワードが浮かんできて、順位が逆転していくこともあります。

それを考えると、漠然と混沌としている状態について、罪悪感を抱く必要もないですよね。

早い解決をせまる家族などの利害関係者がいれば話は別ですが、自分の中だけのテーマであれば、影響は少ないのではないでしょうか?

いろんな変な汗をかきそうな、変なプレッシャーにさらされることもありますからね。

それを回避したいなら、優先順位を組み替えるのも合理的判断かもしれません。

あるいは、棚上げしている理由を明確に伝えておくなどをすれば、ストレスも緩和することでしょう。

大切なのは、情報を整理する習慣、具体化していく習慣などが、堂々巡りの思考を激変させるのです。

恐怖と畏怖の念の差 出エジプト20:18-21 ヘブル12:18-21

『民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。(出エジプト20:18-21新共同訳)』

『あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。(ヘブル12:18-21新共同訳)』

 

日本では人間のこわいものの代表格として、「地震雷火事おやじ」と言われた時代がありました。

少々、時代は変わりましたが、ほとんどの人には、こわい(苦手)なものはあるようですね。

外見とのギャップを密かに観察して楽しんでいる人もいるようです。

雷鳴や稲妻は、かなり多くの人が、恐怖を感じるではないでしょうか?

こわいと言っても、種類があります。何がなんだかわからない恐怖と畏敬の念を伴うおそれがそれです。

日常的に、自分にとって苦手な対象を恐いと表現して避けたりしますが、畏敬の念を持って身を正すということの方が少ないのかも知れませんね。

出エジプトをしたイスラエルの民にとっては、この体験を通じて与えられた教訓があったのです。

それは、シャカイナグローリー(創造主である神の栄光の顕現)を中心とし、ここで民を試すことにより、死に至らない健全な畏怖の念を持たせることでした。

神の権威を体験しても、なんとかなるのではと考えてしまいますが、おそらく、ほとんどの人がたじろいでしまうことでしょう。

「たじろぐ」は、一歩二歩後ずさりすることです。畏敬の念を強く感じると、足がすくんで前に出られないということです。

この時の恐るべき光景を、後の時代にメシアを信じたユダヤ人に語られたのが、ヘブル書の記述です。「モーセが震える」と記していて、ユダヤ人には歴史的に刻みこまれ、語り継がれている事柄なのです。

それは、自らの罪を認識し、自分と創造主である神の間には、仲介者が必要であることに気づかせるためでした。出エジプトの時には、その役割をモーセが果たしていました。

でも、その役割の本質は、後に贖いを完成されたメシアであるイエス・キリストが担うのです。

シナイ山では、モーセだけが民の仲介者として創造主である神の前に進んで出て行ったのです。

動画 うれしさは尻尾と共に爆発する


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「おじいちゃんとおばあちゃんがやってきたら、ワンちゃんが…、」という動画です。

ワンちゃんのシッポがちぎれそうなくらいフル回転しています。

どうやら、大好きな人達が到着したようです。

普段から相当かわいがってもらっているのでしょうね。

その関係性が伝わってきます。

撮影している家族は、いつもとワンちゃんの様子が違うので、驚いています。

まあ、普段からこれだけテンションが高いと同居するのも大変ですね。

人間でも、対面した時に好反応をする相手がいます。

逆に、その人に出会うと、テンションが「だだ下がり」になるという関係性もあります。

実に生き物同士の関係性は、不思議だと考えさせられます。

私は、じんわり、ホッコリする関係性を大切にしたいと考えています。

習慣と根本原理 夏目漱石

『人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だ。 夏目漱石

原理原則を意識せずに生きている人が大半なのかも知れません。

人間は、良くも悪くも習慣化する生き物なのでしょうね。

そして、この習慣化は、かなりのクセモノでもあります。

自分にとって、理想的な習慣は、三日坊主と言われて身につきにくいですね。

でも、怠惰な習慣は、意識せずとも、体得しているので、実に恐ろしい(笑)

楽なイスとか、超快適なグッズは「ダメ人間製造機」として認定されて、警鐘を鳴らす人が出てきますが、それでも、それが返って宣伝になって、爆発的な大ヒットになったりします。

どうやら、ダメ人間製造機は、魅力を通り越えた魔力のカタマリのようです。

使い手は、楽な環境を満喫して行動範囲を狭めて動かなくなり、肥満になって不健康になる。

作りては、莫大な利益を手にして、ニヤニヤ通帳を眺める。

快適な環境は望ましいことですが、快楽はほどほどにしておくほうが、良いのかも知れません。

快楽に溺れて身の破滅に至るのだけは、避けたいものです。

このためにも、物事のベースにある根本の原理も考えていきたいですね。

「あー、今日も快感が手招きしているーー」

などと、感じていたら、その快感の影に潜むものを洞察してみることも大切なのかも知れませんね。