永遠の幸福マインドで今ココを生きる diary

肉体的せかいのおわりを乗りこえる方法 幸福を科学ではなく実感するチャレンジ イエスをメシアと信じることから始まる平安体験の探求と気づきメモ by Davi Blackstone

ごちそうにノックアウトされる

久しぶりに料理旅館のご馳走を味わう機会がありました。

地元で獲れた伊勢えびや白身の魚のさしみから煮物、揚げ物まで品数豊富で、とても美味しくいただきました。

しかし、普段、小食粗食で過ごしているので、胃袋が小さくなっているのでしょうか?

なんとか、詰め込みましたが、身動きが取れない状態で、放心状態気味でした。

ご馳走は大好きですが、できれば、三回くらいに分けていただきたいですね。

動物の中には、いくつも胃袋を与えられている種類もあるようなのですが、人間には一つなので、なんとも致し方ないですね。

でも、また機会があれば、ご馳走にノックアウトされても良いかな?とは思います。

ご馳走も、ほどほどが宜しいようで。

大切な誰かのために ヨハネ10:10 いのちを得、豊かに

『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ10:10新共同訳)』

誰かを訪問すると、あいさつもそこそこに、「で、ご用件は?」という流れになります。

目的を明確にすることは、お互いにとって時間を浪費しないためにも大切ですね。

ここで、たとえに使われているのは「盗人」です。被害者にはたまらない話ですが、盗人は、モノや金を取りに来るだけではなく、いのちまで盗って、殺してでも奪うという目的が示されています。

「わたしが来たのは、」の「わたし」は、肉体に宿った100%人であり、100%神であるイエス・キリストのことです。

イエス・キリストは、ユダヤ人に分かりやすいように、羊飼いと羊の関係で繰り返し例え話をしていましたから、ここでも、人間を羊と例えて話しているのです。

「命を受ける…豊かに受ける…」と記されているのは、盗人が奪う為に来るのとは真逆ですね。

イエス・キリストは、良き羊飼いとして、羊に命を与える為に、自らの命を犠牲にするためにこの世に来たのですね。

「命を与える」という行為は、創造主である神にしかできないコトですね。

また、「命」は継続性が大切ですから、命を受けて、さらに豊かに生きていけるのですね。

「大切な誰か?」とは、創造主である神が命を授けた全人類、一人一人に向けた精一杯の愛の表現なのですね。

動画 いつもそばにいるワン

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良く言えば忠犬、別な表現でいうと甘えん坊? どちらでしょうね。

飼い主さんからすると、愛犬の存在とぬくもりをそばで感じながら、有意義な時間が過ごせるのでしょうね。

ガラスのテーブルの下に、コンパクトに収まっている姿は、非常にチャーミングですね。

ネコちゃんのケースは、ディスプレイ前だったり、キーボード上だったりですから、このワンちゃんのポジショニングは飼い主にもワンちゃんにもwinwinなのでしょうね。

この動画だとおとなしい感じですが、お散歩アピールやおやつタイムのおねだりなども見て見たい気もしますね。

愚者は「賢」、賢者は「愚」 シェイクスピア

『愚者は己を賢いと思うが、賢者は己が愚かなことを知っている。 シェイクスピア

人の評価は非常に気になりますよね。ミシュラングルメガイドが注目されるのは、他者評価のかたまりだからかも知れないと考えています。そもそも、ミシュランはタイヤメーカーですから、車に乗ってでも、食べに行きたい場所を示すのにグルメガイドを作ったそうですね。

風が吹けば桶屋が儲かる」の図式ですね。つまり、車で名店に外食に行くと移動をするので、タイヤを消耗するから、その結果、タイヤを交換する頻度が多くなるということですね。非常に、賢い人の発想なのかも知れませんね。

人間の願望には、「賢くありたい」というものがありますよね。そして、「賢いね」と評価されたいという欲望も隠し持っているのではないでしょうか。それが目的化してしまうと、本末転倒になり、「私は賢い」とアピールしてしまうのかも知れません。

でも、冷静な人は、自分を客観視して、自分の愚かな部分に光を当てて、自分を戒めているのでしょうね。「賢者は愚者からも学ぶ…」というフレーズもありますから、賢者の思考回路は、どこかに違うところがあるのですね。

勇気がいらない決断はない

「人生は決断の連続だ」と言われます。

積極的にしても消極的にしても、決断をしなければ人生は過ごせません。

人に勧められることを追認して決断をすれば、何か想定外なコトが起きた時に、勧めた人を責めるかも知れません。これが、消極的決断のリスクです。勧める側も注意が必要ですね。これでも、決断をする時には勇気が必要でしょうね。

しかし、積極的に、主体的に検討をして、決断をする時には、「勇気」がもっと必要になります。もう、失敗はできないと考えている局面ではなおさらです。

そもそも、自分で考えて決断することに慣れていない人も多くいるので、自分で決断をするトレーニングも必要なのでしょうね。

あまり力が入りすぎてもプラスには働かないかも知れませんが、決断と結果を受け入れるということに慣れていないと、相当、力が入って疲労困憊するでしょうね。

参考意見は聞くけれど、自分で決めるという習慣づけは、非常に役に立つと思いますよ。

そのためには「勇気」が必要ですが。

人生の難問 養育・教育について 箴言22:6

『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22:6新改訳2017)』

「私は3人の子を東大に入学させました」といって活躍している人もいます。子を東大に入れたいと考えている親世代からは英雄的存在ですし、社会的成功者と扱われますから、活躍の場も多いのでしょうね。

人生は、優秀と評価される学校に入学するだけではありませんから、卒業後の活躍も含めて客観的に考える必要があると考えます。いつか、「誰の為に、何の為に、東大に入ったのか?」というテーマに一人一人が行き当たるでしょうからね。

「AI」の発達で、今まで高収入を得ていた職業のポジションが減りつつあります。時代の流れですね。これから先にはどうなって行くのでしょうね。

養育・教育の義務を背負っている親は、思い通りにならない子を相手に、四苦八苦して子育てを担ってきたことでしょうね。子育てに成功したと自慢できる人は少数派のように感じます。理想と現実は、個人差に大きな開きがあるからです。

「その行く道にふさわしく教育」とありますが、これこそ考え出せば考えるほど難問なのかも知れませんね。

子がつきたい職業の訓練をするための教育を希望すれば、大きな出費をしてでも、叶えてやろうとするのが親心ですが、その結果どうなるかは子や情勢次第ですからね。

親の姿勢として、観察眼や柔軟性、そして根気を示すことができていれば、子もそれを参考にしながら、人生を歩んでいける要素になるのかも知れません。

希望は未来の栄光を… ダンテ

『希望は未来の栄光を疑念をはさまず待つこと。 ダンテ』

希望がないと失望し、絶望に至ります。希望に確信が持てないとそのようになっても致し方がありません。

でも、生きていれば、自分の期待に反した結果が出ることもあります。できるだけ健康に生活したいとイメージしていても病気になってしまうこともありますからね。その様な時には、「ガックリ」してしまいますよね。

いつか良いことがあると確信して、やり続ける人は、かなりの少数派なのかも知れませんね。かなりの粘り気がないとできないことかもしれません。確率的には、コインの裏表の回数は1/2になるといわれていますから、やり続けることによって希望の面はいつかは出ることもあるでしょうね。

大切なのは、自分が取り組んでいることへの姿勢をより良く修正していくことで、うまくいく確率は上げられるのですね。

しかし、希望している結果が、数回連続して出ないケースでは、きっとうまくいかないのではないかという疑念が渦巻いてきます。この渦に巻き込まれると、失望へと誘導されてしまいますね。

大切なのは、「未来の栄光」があるという確信が持てるかどうかにかかっているようです。